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<< (22)工藤家住宅−→墓碑−→棟持柱の木小屋 >> ● (22)工藤家住宅(くどうけじゅうたく) 馬と共に暮らした南部の曲屋 指定区分:国指定重要文化財 旧所在地:岩手県紫波郡紫波町舟久保 建物区分:農家(名主の家)、曲屋 構造形式:寄棟造、茅葺、桁行19.2m、梁行11.1m 南面に馬屋突出、寄棟造、茅葺、桁行7.6m、梁行6.3m 建築年代:宝暦(1751〜1763)頃 主屋(おもや)の前に馬屋(うまや)を突出させたL字型の民家は、旧南部藩領(なんぶはんりょう 岩手県)に多いことから「南部の曲屋(まがりや)」として知られています。 これは、南部馬(なんぶうま)の飼育が盛んになる江戸時代中期に工夫された形式と考えられ ます。 宝暦(ほうれき)頃に建てられた工藤家は現存最古の曲屋の一つといえます。 民家園の中で一番敷地面積の広い家です。 主屋には天井がありません。 この地方はもともと天井のない家が多く、厳しい冬場は囲炉裏(いろり)の火で家全体を暖めな がらすごしました。 ダイドコの囲炉裏はニワからも利用することができます。 ダイドコとジョウイは日常生活の場、ナンドは寝室です。 ザシキは 床の間も備えた特別な部屋で、この広い家で唯一畳が敷かれています。 ○ 入口を入ります。 ○ まや(馬屋・・馬を飼う所) 馬と暮らす 工藤家では、2頭の馬を飼っていました。栗毛なら「クロ」、赤毛なら「アカ」と呼んだそうです。 エサは朝・昼・晩の3回です。 ワラや燕麦(えんばく)、葛の葉が主な食物で、フスマ(小麦を粉にしたときの残りかす)や、米の とぎ汁を混ぜたりしました。 人がごちそうを食べる大晦日の晩には、馬にも小麦を食べさせました。 冬は水が冷たいので、飲み水も釜で温めてやりました。 馬は田畑を耕したり、馬車を曳かせたりするのに欠かせませんでした。 また厩に敷いたワラを踏ませて肥料にしたほか、馬の尿もコヤシに使いました。 厩の地面には傾斜がついており、外に尿が溜まるようになっていたのです。 病気になると伯楽(はくらく)という馬専門の医者に診せ、薬を飲ませました。 しかし、それでも甲斐なく死んでしまうと、そばの山にあった馬の墓に埋葬し、ワラで使った馬 を立てて煮豆を供えてやったそうです。 ○ だいどころ(台所・・食事の準備・食事をする) ○ かってのま (右画像/米櫃・コメビツ) ○ ちゃのま(茶の間・・家族の休息・屋内作業をする。 ○ なんど(納戸・・家族の寝室・物置) ○ しもざしき(下座敷・・客用の予備の部屋) ○ ざしき(座敷・・客をもてなす・仏事を行う部屋) ○ 便所 (真ん中の画像の「ウマヤ」の左側が、男性の小用便所) 農家は一日の大半を屋外で働きます。 そのため、大便所は主や屋から離れた小屋に、小便所は土間の入口近くに簡単に設けるのが 普通でした。 工藤家には便所が3カ所ありました。 入口脇には男性の小用、少し離れたところに男女の大用と女性の小用に使われた外便所、こ の他、復原されていませんが、外便所の左手にもう一つありました。 こちらは男女兼用の小便所だったそうです。 ○ 外便所 この建物は旧工藤家の外便所を新しい材料で再現したものです。 現地のものは昭和12年頃の建築でした。 住宅との位置関係は同じですが、敷地の関係上、大きさは小さくしています。 現地では、向かって右の外側に物置スペースもありました。 この外便所の他、マヤ(馬屋)の隣りに簡易用の便所があります。 ● 墓碑 旧所在地 川崎市川崎区大師本町妙長寺 年代 延享3年 寛延3年 ● 棟持柱の木小屋(むなもちばしらのきごや) 指定区分:川崎市重要歴史記念物 旧所在地:神奈川県川崎市多摩区生田 建物区分:農家付属建物 構造形式:切妻造、杉皮葺、一面下屋付、桁行3.6m、梁行2.7m 建築年代:大正13年(1924)頃 この建物は、カマドのための薪(たきぎ)や落ち葉などを蓄えておく小屋でした。 構造としては二つの点で注目されます。 まず一つは、棟持柱(むなもちばしら)を持つ点です。 二本の棟持柱が棟木(むなぎ)を受けるとともに屋根を直接支え、屋根の骨組みと柱が一体化 しています。 もう一つは、柱が掘立式(ほったてしき)である点です。 移築前は礎石建(そせきだて)に改められていましたが、もとは地中に約33cm埋められていた ことが調査によってわかりました。 柱はほとんどがクリの木を使用し壁は「せっぱ(切端)」と呼ばれるスギ板を打ち付けたものです この建物は民家の原初的な構造と通じるものがあり、多摩丘陵の農家にあった付属屋(ふぞく や)の一例としても参考になります。 (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |