「7」(10)山下家住宅→(11)作田家住宅

                   


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   ● (10)山下家住宅  鍵座敷をもつ典型的な白川系合掌造
          指定区分:神奈川県指定重要文化財
          旧所在地:岐阜県大野郡白川村長瀬
          建物区分:農家、合掌造
          構造形式:切妻造、一重三階、茅葺、正面庇付、石置き板葺
                 桁行18.2m、梁行10.9m
          建築年代:19世紀前期
             合掌造の「合掌」とは、屋根の骨組みとなる叉首(さす、斜め材)のことをいいます。
             幾層にも区切られた広大な屋根裏では養蚕が行われたほか、冬の食べ物や薪などの貯蔵
             場としても使われました。
             山下家は昭和33年(1958)に川崎駅近くに移築され、料亭として利用されていました。
             その後、昭和45年(1970)に当園へ再移築した経緯があるため、復原されていない箇所が存
             在します。
             しかし、「切妻造(きりづまづくり)」「平入(ひらいり、現在は妻入となっている)」「石置板葺(いし
             おきいたぶき)の庇(ひさし)」などの特徴が見られ、典型的な白川系の合掌造といえます。
             居室部は六間取りで、デイ・オクノテ・ブツマの三室がL字型に配された「鍵座敷」となってい
             ます。
          料亭 白川の郷
             旧山下家住宅は、民家園に寄贈される以前、川崎区小川町で料亭として活用されていました
             昭和33年(1958)、市内に多くの店舗を経営していた和菓子店仙 屋社長千葉建三氏が、白川
             村長瀬山下良忠氏より合掌造の民家を 同年12月19日に、国際観光民芸店・民芸喫茶・諸国
             郷土料理店「白川の郷」をオープンさせました。
             千葉氏は旧山下家住宅を料亭とするため、間仕切りを増やし、2階へ登る階段を取り付けるとい
             った改造を加えましたが、礎石からほぼ全ての部材を移築し、そのまま活用しています。
             しかしその3〜4年後には、2階から出火し屋根裏の大部分と1階の一部を焼損してしまいました
             その後屋根をトタンとするなど修復が施され、営業は再開しました。
             氏はこれを機に民家園へ寄贈を決意します。
             昭和44(1969)年には解体工事が開始され、昭和46年(1971)に民家園へ移築されました。
             さて、旧山下家住宅が民家園に移築されてしばらくは、休憩所(食堂)の経営も仙台屋によ
             って行われていました。
             しかし千葉氏の没後、経営から撤退しています。

               


                  


           「無料休憩所」と「白川郷そば処」として営業しています。

                  



     ○ 手洗石  所在地:長野県南佐久郡佐久穂町

                          

   ● 小さなトンネルをぬけると、「板葺き屋根」の説明と模型があります。
        板葺き屋根
          (4)三澤家の屋根はクリなどを材料とし、その上に石を置くと石置板葺という形式です。
          これらの木を長さ40〜60cm、幅10cm、厚さ1cmほどに割って並べます。
          板を押さえるためのヒノキを割った「ヤワラ」(押縁)を置き、その上に平らな石を置きます。
          石が揃っているように見せるため、棟に近いところほど大きい石をのせました。
          丸い石や不安定な石は落石の危険があるため使いませんでした。

          三澤家のあった長野県伊那市は冬でも雪が少なく、雪下ろしをすることはありませんでした。
          夏になると板が反り、夕立のときには雨漏りすることもありました。
          板は2、3年で天地を返しますが、傾斜が少ないので水が溜まりやすく、腐りやすかったようです。
          屋根の手入れが手間のかかる仕事です。
          また厚い板は高価で、手に入りにくくなっていったこともあり、次第にトタン葺きへと変わっていき
          ました。

                  


   ● 石橋供養塔  明和元年(1764)  旧所在地:川崎市多摩区登戸
        一般的には橋が完成した際、水で亡くなった人を供養し災厄を防ぐために祈った記念として建てられる

   ● 石橋  旧所在地:川崎市多摩区登戸
        江戸時代の後期、登戸村の小泉利左衛門が架けた三十三の橋の一つ。

        



   ● (11)作田家住宅  イワシの地引網漁で栄えた網元の家
         指定区分:国指定重要文化財
         旧所在地:千葉県山武郡九十九里町作田
         建物区分:漁家(網元の家)、分棟型
         構造形式:主屋=寄棟造、茅葺、桁行13.0m、梁行11.1m、風呂場及び便所付属土間=寄棟造、
                妻入、茅葺、桁行11.5m、梁行5.6m
         建築年代:主屋=17世紀後期、土間=18世紀後期
            この建物はイワシ漁で栄えた九十九里にありました。
            漁具小屋は海岸近くにあり、この家そのものは内陸に立地していたため、漁村の家の雰囲
            気はありません。
            外観は二棟が軒を接しているように見えます。
            これを分棟型(ぶんとうがた)と呼び、クリの木の半割丸太(はんわりまるた)をくり抜いた大き
            な雨樋(あまどい)が二つの屋根をつないでいます。
            居室部は囲炉裏(いろり)のある広いカミがまず目に入ります。
            床の間の前身である押板(おしいた)や仏壇(ぶつだん)を備え、網元(あみもと)としての生活
            に使われた格式のある部屋です。
            その上手は畳敷(たたみじき)の部屋がつづき、座敷としては最高の扱いとなっています。
            背後には便所と風呂が付属し、座敷と同様に上層民家の接客部分を伝える貴重な建築です

               



                      

     ○ にわ

                  


  (左上/タケス・・・ミリン干しを干すのに使用)    (右上/ザ・・・イワシを干すときに使用)
  (左下/サンザ・・・イワシを釜で煮るときに使用)  (右下/ミドダル・・・地曳網の中央につけ、網の口を開ける)

           



     ○ ちゃのま(茶の間・・食事の準備・食事をする)

                          


     ○ かみ・・大勢の人の会合・屋内作業をする。

                  


     ○ げんかん(玄関・・来客用の出入口)

                          


     ○ なかのま・・客をもてなす予備の部屋

                          


     ○ おく・・客をもてなす

                  



   ● (12)沖永良部の高倉へ向かいます。 

                          



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                               ● (入口へ) ●

  

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