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<< 東大手門−→番所−→塀重門−→東南隅櫓−→唐門−→二の丸御殿−→釣鐘−→井戸 >> ● 東大手門から入るのですが、工事中でシートがかけられています。 東大手門(重要文化財) 二条城の正門で、江戸時代前期の1662年(寛文2年)に造られました。 屋根は本瓦葺で入母屋造り、妻は木連格子、棟には鯱が飾られています。 形式は櫓門で石垣と石垣の間に渡櫓を渡して、その下を門とした形式になっています。 ● 東大手門を入っていくと右側に番所がありますが、工事中でシートがかけられています。 ● 番所 徳川将軍不在時の二条城は、幕府から派遣された「二条在番」と呼ばれる武士たちが宿直・警備 していた。 一つの組は50人で構成され、二条城には2組が常駐し、毎年4月に他の組と交代していた。 この番所は、その在番の詰所の一つで、寛文3年(1663年)に建てられたことがわかっており、間口 十間(19.6メートル)、奥行三間(6.1メートル)の切妻造りの建物となっている。 現存する城郭の番所は全国的にも少なく、貴重な建物である。 ● 番所の脇に「塀重門」があり、清流園方面へ行くことができます。 ● 反対の唐門方面に向かいます。 ● 前方左側角は「東南隅櫓」です。(重要文化財) 二条城には寛永期に建てられた隅櫓が本丸や二の丸の隅にありましたが、天明8年の大火の際に多 くの櫓が焼失してしまい、今はこの東南隅櫓と西南隅櫓が残っているだけです。 (全景は、パノラマでご覧ください) ● 唐門(重要文化財) 二の丸御殿への正門で、御殿の南側に位置しています。 切妻造,桧皮葺の四脚門でその前後は唐破風造となっています。 牡丹に蝶、鶴に大和松と亀、龍虎、亀乗り仙人と鳳凰、唐獅子などの極彩色彫刻がふんだんに使わ れています。 *二の丸御殿前より (全景は、パノラマでご覧ください) ● 二の丸御殿(国宝) 武家風書院造の代表的な御殿建築で、遠侍(とおざむらい)、式台(しきだい)、大広間、蘇鉄の間、黒 書院、白書院の6棟が東南から西北にかけ雁行形に並んでいます。 建物面積は3,300平方メートル、部屋数は33、畳は800畳余りあります。 各部屋の障壁画は狩野派の手によるもので、部屋の目的に応じて描かれています。 また欄間の彫刻、飾金具、長押(なげし)に打たれた花熨斗形(はなのしがた)の釘隠などは、金飾あざ やかに豪華を極めています。 また、御殿東北には、台所・御清所(おきよどころ)があり、いずれも重要文化財に指定されています。 *車寄 (全景は、パノラマでご覧ください) *豪華に装飾された車寄から二の丸御殿に入っていきます。 (残念ながら御殿内は撮影禁止です) (画像をクリックすると、大きくなります) (1)遠侍 柳の間 車寄を入った正面の部屋は、障壁画により「柳の間」と呼ばれ、目付役が控え、来殿者の受付をし た所とされています。 (2)遠侍 一の間〜三の間 3部屋に分かれており、昇殿した大名の控室です。 虎の間ともいわれ、障壁画は狩野門下の筆によります。 (3)式台 式台の間 昇殿した大名が老中職と挨拶を交わした所です。 将軍への献上品は、この部屋でとりつがれました。 (4)大広間 三の間 部屋の表面上にある欄間の彫刻は厚さ35cmの檜の一枚板を両面から透かし彫りにしたものです また、大広間と黒書院の部屋廻りの柱の上にある金具は花熨斗形の釘隠といい、銅の地金に金 を鍍金したものです。 (5)大広間 一の間・二の間 将軍が諸大名らに対面した部屋です。 特に将軍が座る一の間は、最も豪華に造られており、帳台構・違棚・床の間・付書院を備え、天 井は、四方が丸く折り上がった「折上格天井」の中が、もう一段折り上がった「二重折上格天井」 になっています。 また、障壁画は、狩野探幽の作といわれています。 (6)黒書院 将軍と親藩及び譜代大名が内輪で対面した所です。 大広間と同じ書院造りですが、少し小さくなっています。 (7)白書院 将軍の居間と寝室です。 二の丸御殿の中ではもっとも規模が小さく、障壁画は居間にふさわしい水墨画になっています。 (8)大広間 四の間 この部屋の障壁画「松鷹図」には、桃山時代の様式を取りいれた、巨大な松と雄壮な鷹が描か れています。 (9)式台 老中の間 3部屋あり、老中が控えた部屋です。一の間と二の間は芦雁図で、三の間は柳鷹図です。 長押の上は白壁で質素に造られています。 (10)遠侍 勅使の間 朝廷からの使者を迎える時の対面所とされています。 障壁画には、青楓や檜、桃等が描かれています。 ● 釣鐘について この鐘は、幕末の政変の時期、二条城と北側の所司代との連絡に使われたものです。 鐘は二条城と所司代に設置され、二条城では東北隅の艮櫓跡に所司代の千本屋敷から火の見櫓を 移築し鐘楼を建て、鐘が設置されました。 幕府の政務の場であった二条城と所司代は幕末の混乱の中、薩摩・長州など朝廷側の動向に備え、 鳥羽・伏見の開戦など非常時の連絡をつけ、明治に入ってから二条城に京都府が置かれた時も非常 時に備え使用されていました。 ● 井戸 (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |