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<< 幸田口門跡−→二の丸東掘−→まなび橋−→大手門跡−→鐘楼 >> ● 小田原駅を出て右折し、「お堀端通り」を進むと左側に「幸田口門跡」があります。 * (右画像/幸田門趾記念碑) 小田原城跡 三の丸土塁 国指定史跡 指定昭和13年8月8日 この土塁は、江戸時代の小田原城の三の丸の土塁跡です。 当時は、本丸、二の丸(現在の城址公園周辺の範囲)を包むようにお堀と土塁を巡らし、三の丸とし ていました。 この土塁は、三の丸の土塁が残されている数少ない場所のひとつです。 この場所の西側に幸田門(こうだもん)という三の丸の入口がありました。 その跡の一部が発掘調査で見つかっています。 戦国時代に上杉謙信や武田信玄が小田原城を攻めた時には、この幸田門から小田原城を攻めた と考えられています。 北条氏康・氏政父子は、籠城策を用いてこれを退け、小田原を守り抜きました。 武田信玄 上杉謙信 北条氏康 ● 二の丸東掘 (国指定史跡 指定 昭和13年8月8日 小田原城は、江戸幕府 将軍家光の乳母、春日局の子稲葉正勝が寛永9年(1632)城主大規模な 工事が行われ、石垣を備える近世城郭として整備。 二の丸東堀は、本丸・二の丸を守る堀の中でもっとも大きなもので、幅は最大で約40mあり、現在よ りもさらに北に約60m先まで続いていました。 また、西は常盤木橋、南は南曲輪の前までつながっていました。 現在の石垣は、大正12年(1923)の関東大震災で崩れたものを昭和初期に復旧したものですが、右 の写真のとおり、江戸時代の石垣は今のものよりも高く、二の丸の石垣として威厳のある姿を見せて いました。 なお、震災直後、一時この堀を埋め立てる計画がありましたが、小田原保勝会が中心となって保存 運動を起し、その結果二の丸東掘は今日までその姿を残すことができました。小田原市教育委員会 ● まなび橋 ● 小田原城跡 「大手門跡」 (国指定史跡 昭和13年8月8日指定) この場所は、江戸時代の小田原城の大手門があった所です。 この門を入ると西側一帯は三の丸となり、道の両側に小田原藩の家老級の屋敷が並んでおりました それまで箱根口付近にあった大手門を、稲葉氏が城主であった寛永10年(1633)に三代将軍徳川家 光が京都に上るのに備えて、江戸に向く現在地に移し、大手門前までの道は将軍家が小田原城に 入るための、御成道として整備され、東の入口であった江戸口見附も、国道1号線沿いの現在の位 置に移されました。 大手門の造りを元禄時代ごろの絵図で見ると、三の丸の堀に架かる土橋を渡ると、外からの攻撃や 敵の侵入を防ぐための、馬出(うまだし)と呼ばれる空間があり、更に冠木門(かぶきもん)と呼ばれる 門から枡形と呼ばれる四角い空間に入ります。 この枡形は、櫓門(やぐらもん)や石垣、塀で囲われており、厳重で、立派な門であったことが分かり ます。 (小田原市教育委員会) ● 鐘楼 この鐘は現在、朝夕6時につかれ、時を知らせている。 時を知らせる「時の鐘」は、長い間、昼夜の隔てなくつかれていた。 江戸時代の貞享3年(1686)の「貞享3年御引渡記録」の中に 「小田原町の時の鐘は昼夜ついている。鐘つきの給金は一年金六両で、この内金三両は町方 から、三両は町奉行から遣わしている」 という記事があり、300年以上前からつかれていることになる。 この鐘は、初め浜手御門(ここより約150m南)のところにあっったのを、明治29年(1896)裁判所の 東北隅に移され、さらに大正年間に現在の場所に移された。 昭和17年(1942)には、太平洋戦争の激化により、軍需資材が欠乏したため、政府は金属類の供 出命令を出し、鐘は応召される(「時鐘応召」と呼ばれた)。 その後、時報は鐘に代わってサイレンやチャイムになったが、城下町に似つかわしくないというこ とで、昭和28年(1953)小田原寺院団によって新しい鐘がつくられた。 これが現在の鐘である。 (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |