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<< 本丸東掘跡−→東掘花菖蒲園−→常磐木橋−→常磐木門−→本丸広場−→ −→本丸の巨マツ−→サルの檻−→売店・休憩所−→時計台 >> ● 本丸東掘跡 江戸時代の小田原城は、本丸を堀が囲んでいました。 この絵図によると、堀は二の丸堀とつながる水堀となっています。 発掘調査によって、この本丸東掘の位置が確認され、最も幅があるところでは20m以上もあることが わかりました。 そこでこのたび、植木と盛り土により堀の形を表現し、整備しました。 この堀を渡るために架けられていたのが常磐木橋で、水鳥の池は堀の名残と言えます。 * (文久図 小田原城天守閣蔵) ● 東掘花菖蒲園 常磐木門へ行く階段の両脇が菖蒲園になっています。 ● 常磐木橋を渡ります。 ● 常磐木門(ときわぎもん) 本丸の正面に位置し、小田原城の城門の中でも、最も大きく堅固につくられていた。 古絵図などの記録から、江戸時代初期から設けられていたことが分かる。 元禄16年(1703)の大地震で崩壊した後、宝永3年(1706)に、多門櫓と渡り櫓から構成される枡形門 形式で再建されたものが、明治3年(1870)の小田原城廃城まで姿をとどめていたといわれている。 現在の常陸木門は、市政30周年事業として明治時代初期に撮影された写真などを参考に再建した もので、昭和46年(1971)3月に完成した。 常磐木とは常緑樹の意で、門の傍らには往時から松が植えられており、また、松の木が常に緑色を たたえて何十年も生長することになぞらえ、小田原城が永久不変に繁栄することを願って、常磐木門 と名付けられたといわれている。 本丸広場からの常磐木門 ● 本丸広場 小田原城本丸は、東西83間(約150m)、南北63間(114m)ほどの規模をもち、その西端に天守閣、中 央にはかつて本丸御殿が存在しました。 本丸の周囲は石垣と土塀がめぐらされており東南と北側に門が設置され出入りが制限されていました 東南側の門は、本丸の正面にあたる常磐木門(ときわぎもん)、北側の門は、裏門にあたる鉄門(くろが ねもん)とそれぞれ呼ばれています。 天守閣は、元禄16年(1703)の地震で、小田原城内の他の建物とともに倒壊・焼失しましたが、宝永3 年(1706)に再建されました。 以後、江戸時代を通じて存続しましたが、明治3年(1870)の廃城によって取り壊されました。 現在の天守閣は、昭和35年(1960)に宝永年間の再建時に作成された引き図(設計図)や模型を参考 に鉄筋コンクリート造で復興されたものです。 本丸御殿は、寛永11年(1633)に徳川家光が上洛に際して宿泊するために建設されたもので元禄16 年(1703)の地震により焼失して以来再建されませんでした。 元禄年間の姿を伝える宮内庁図には、本丸の南側に七本松と呼ばれた松が描かれていますが、現 存する巨松(おおまつ)は、七本松の最後の1本で樹齢400年を越えるものです。 小田原城本丸一帯は、昭和34年(1959)、国史跡に指定され、貴重な文化財として保護・保存されて います。 平成23年3月 小田原市 * (幕末期の小田原城の絵図/文久図)・・・(1772年頃の小田原城本丸/宮内庁図) インドゾウのウメ子 ウメ子は、昭和25年に推定3歳で来園したインドゾウです。 約60年にわたり多くの市民と観光客から親しまれていましたが、平成21年9月17年推定62歳で永眠 しました。 このレリーフ(作柏木康兵)は、ウメ子の来園に尽力いただいた西村楽天氏から昭和31年に寄贈され たものです。 ● 小田原城跡本丸の巨マツ(和名:クロマツ/マツ科) かながわの名木100選 昭和59年12月選定 天保年間の相中雑誌「御本丸に七本松という老松・・・」とある松の生き残りと思われる城跡内最大 の巨木である。 小田原市の天然記念物の指定されている。 樹齢/3m 胸高周囲/5.3m 樹齢/約400年(推定) クロマツは、本州から九州の海岸に生える常緑の針葉高木で、アカマツとともに防風林、砂防 林や街道の並木道に植えられることが多い。 樹高45m、胸高周囲10m、樹齢約800年に達するものもあるといわれている。 ● サルの檻 ● 売店・休憩所 ● 時計台 (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |