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<< 天守閣 4階 >> (( 企画展示室4−→天守閣復興 )) ● 「企画展示室4」 その後の小田原城 明治時代から現代に至る小田原城の歴史を、古写真を中心に紹介します。 (時期により展示内容が変更になります) ● 天守閣復興 昭和25〜28年(1950〜1953)にかけて、戦後復興の一環として天守台の石垣の積み直しが行われま した。 折しも、全国的に天守の復興が盛んになっており、「小田原城天守閣復興促進会」が結成されるなど、 市民からも復興を望む声が高まっていました。 昭和33年(1958)、市は天守閣の復興を決定し、翌年から始まった「天守閣復興瓦一枚運動」では、瓦 の枚数にして2万枚以上の寄付が集まりました。 昭和35年(1960)5月25日、小田原城天守閣は開館の日を迎えました。 また、天守閣に続き昭和46年(1971)には常磐木門も再建されました。 * (建設中の天守閣/昭和35年(1960)) ***************************************** << 天守閣 5階(1) >> (( 常設展示室3−→摩利支天と天守七尊−→摩利支天像厨子−→ −→小田原城天守模型−→シアター−→継手・仕口−→小田原城天守最上階模型 )) ● 「常設展示室3」 小田原城天守再現 江戸時代に天守にまつられていた摩利支天像の安置空間を再現し、再現に生かされた職人の 技を映像で紹介します。 ● 摩利支天と天守七尊 摩利支天は、日本では武士の間であつく信仰されてきました。 小田原城天守のものは三面六臂(さんめんろっぴ/3つの顔と6本の腕)で、イノシシに乗る姿で表 されています。 また、作られた時代は分かりませんが、天守の形をした厨子に納められています。 江戸時代の天守には、摩利支天を含む、天守七尊と呼ばれる仏像が安置されていました。 現在残るのは、阿弥陀如来、如意輪観音、大日如来、弁才天、地蔵菩薩、薬師如来で、明治3年 (1870)の廃城時に持ち出され、現在は永久寺(小田原市城山)に安置されています。 ● 摩利支天像厨子 摩利支天像が収められていた天守型の厨子です。 5つに分かれ、一層部分には観音開きの扉が付けられています。 作られた時期は不明ですが、天守七尊が描かれた図に、明治3年(1870)の廃城後に摩利支天像 が移された永久寺(現小田原市城山)の名が記されていることや、本資料と思われる図柄が見られ ることから、明治時代には作られていたと思われます。 ● 小田原城天守模型(東京大学模型)神奈川県指定文化財 江戸時代 小田原城天守閣蔵 縮尺20分の1 高さ141.6cm 桁行110.8cm 梁間90.3cm 小田原城天守とされる模型は、この模型と東京国立博物館模型、当館に展示されている大久保 神社模型の3基が現存します。 この模型は3重3偕で、桁行側・梁間側のそれぞれ一面の壁を表現している点、出窓を4カ所設け その屋根を入母屋造にする点などが特徴的です。 内部は、1重目を1偕建てにしています。 ● シアター ● 継手・仕口 木造建築で、木材を接合するために古くから伝わっている工法です。 柱や梁、桁などを組み上げて構造を作るときに、木材をしっかりと組むため、各部材に「刻み」を 入れます。 その刻みのことを役割によって「継手」「仕口」と呼びます。 木材を継ぎ足して長さを長くする場合を「継手」、交差する木材をつなぐ場合を「仕口」といいます。 精密な継手・仕口は高い技術を要し、昔から大工によってさまざまな技巧をこらした組合わせ方 法が考えられてきました。 ● 小田原城天守最上階模型 平成27年(2015) 小田原城天守閣蔵 縮尺20分の1 小田原城天守模型(東京国立博物館模型)の実測結果をもとに制作したもので、柱の配置や摩利 支天像が安置されていたとされる須弥檀(しゅみだん)の様子が分かります。 (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |