(岡山後楽園HPを参考にしました) (画像をクリックすると、大きくなります) |
<< 郭沫若氏詩碑−→鶴舎−→後楽園鶴の碑−→馬場・弓場 −→観騎亭−→水源−→津田永忠顕彰碑−→寒翠細響軒 >> ● 郭沫若氏(かくまつじゃくし)の詩碑 詩の大意はあ「留学時代が懐かしい後楽園も、戦災で城を失った今の眺めは寂しい限り、せめて 鶴立たせて良き伴侶としたい」というもので、碑の文字は郭沫若氏の直筆です。 昭和31年、氏のはからいで、中国から丹頂2羽が贈られました。 後楽園仍在 後楽の園(その)は仍(なお)あれど 烏城不可尋願 烏城尋ぬべからず 埓丹頂鶴作 願わくは丹頂の鶴をもって 對立梅林 作對(さくたい)して梅林に立たしめん 1955年 冬 郭沫若 ● 鶴舎(タンチョウ) 昭和31年、岡山の旧制第六高等学校に学んだことのある中国科学院の郭沫若(かくまつじゃく)氏か ら戦後途絶えたままであったタンチョウ2羽が贈られました。 その後、釧路市の協力もあり多くが生まれ育ち、その美しい姿が園内によみがえりました。現在では 8羽飼育しています。 ● 後楽園鶴の碑(由来記) 後楽園の鶴(丹頂)は庭園が造られた時どこからともなく飛んできて住みつきその後、瑞鳥として 大事に飼育されました。 戦時中に絶滅し、昭和31年に中国の郭沫若先生から日中友好のかけ橋として2羽の丹頂が贈ら れ、それをきっかけに後楽園の象徴として現在も飼育されています。 平成元年7月24建立 ● 馬場・弓場(ばば・ゆみば) 後楽園は、藩主の楽しみの場としてだけでなく、文武両道を怠らぬよう武芸の稽古場も設けられて います。 家臣が馬術・弓術の上達ぶりを藩主の前で披露するという行事が行われ、藩主は観騎亭・観射亭 からその様子を見ました。 ● 観騎亭(かんきてい) 藩主が家臣の乗馬の技を見るための建物で、馬場側にも窓が開いています。 戦災をまぬがれ、往時の姿を今に伝えています。 馬場の長さは約180メートルで、年若い藩主たちはここで乗馬の稽古に励みました。 ● 水源 ここから園内に流れ出た一筋の水路は曲水(きょくすい)となり、池や滝となって優れた景観を作り 旭川に戻っていきます。 昔は旭川の約4キロ上流から対岸までひいた後楽園用水を利用していましたが、今は伏流水をく み上げています。 ● 津田永忠顕彰碑 津田永忠(つだながただ) 寛永17年〜宝永4年(1640〜1707) 岡山市(弓之町)生れ 岡山藩郡代 岡山藩の藩政確立を主導した重臣 顕彰碑 篆額は池田茂政(もちまさ) 碑文は池田章政治(あきまさ) 書は日下部鳴鶴(めいかく) 明治29年10月建立 ● 寒翠細響軒(かんすいさいきょうけん) 文化12年(1815年)に、当時の藩学校教授万波醒蘆(まんなみせいろ)が背後の松林の縁と前面に 広がる沢の池の清らかな水の趣にちなんで名付けました。 ここからは城と庭園が一体となった雄大な景色を眺めることができます。 (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |