惣門

 ● 惣門 (東叡山寛永寺別院 浅間嶽観音堂惣門) ●
      浅間山観音堂の山門で、散策順路の入口にもなっています

    * (除厄  観世音)・・・(惣門)

                         


    惣門と二天尊像の由来
       この惣門は、天和2年(1682年)東叡山寛永寺山内に建立された勘学寮(学問所)の表門であった。
       明治以降は東叡山寛永寺の惣門として保存されてきたが、昭和41年5月に当別院の惣門として改
       修移築された。
       惣門の左右に安置されている二天尊像は、五代将軍綱吉公ゆかりの尊像で公の没した宝永6年
       (1709年)綱吉公の霊廟が寛永寺に造営され、その二天門のために大佛師法橋香澄によって造立
       され左右に祀られた二天の尊像である。
       その後明治になって同じ霊廟中の勅額門に安置され更に昭和42年には修理を施されてこの浅間
       山観音堂の堂内にお移り願った。
       昭和62年5月二天尊像本来のご性格を考慮してあらためて当惣門にご安置申し上げたものです
                    昭和62年5月20日      浅間山観音堂  執事
       注釈 向って右が持国天、左が増長天、腹部の顔は鬼面といって武神であることを表わしています

                 


           (残念ながらガラスに景色が写ってしまい、二天尊像を撮る事が出来ませんでした)


    松林天上  浅間山鬼押出之碑
                 笠井南村先生
    聞く奈ならく天明三歳の昔、鬼神怒を為して斯の山を覆す火泥一潟千里を流す、草木山川火の湾
      を化す
      一町三村の人畜を滅し、三年冷えず溶岩殷し、今に至るも満目緑を見ず、百八十年風雪の間
       内容
          昭和39年8月、自分は初めて浅間山の鬼押出しという所に行ってみた。
          バスガイドの説明で180年前に当たる惨事と聞いて感激のあまり出来た作。
          時は天明3年鬼神が怒りを発してこの山をえし、噴出する煙は天をおおい、流れ出した真赤
          な溶岩は忽ち一町三村の人畜を焼きつくして遠く渋川辺にまで及んだと聞く。
          委細は聞かずとも惨状眼のあたりの溶岩の熱さで三年くらいは鳥も止らなかったという。
          実に百八十年後の今日さえも溶岩はなお熱さを感じ、草も生えない。

                                 


                       (画像をクリックすると、大きくなります)


                             ● (入口へ) ●



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