● 浅間山観音堂 ● 昭和33年(1958)5月に敬虔な仏教徒の提康次郎が、天明の大噴火による遭難者の冥福を祈る ために建立し、御本尊に東叡山寛永寺伝来の聖観世音菩薩が、厄除観音として祭られています * (浅間山観音堂)・・・(御朱印・御札授所) * (浅間山観音堂由来)・・・(天台宗の教え) ● 浅間山 ● 浅間山が活動を始めたのは今から十数万年前と考えられていますが、記録として残されているのは 約1300年前(西暦685年)からで、それ以前のことは全く分かっていません。 この間に数えきれない程の爆発と噴火を繰り返すことにより形成されたものです。 浅間山は那須火山帯に属しコニーデ型成層火山(三重式)で、現在の釜山は三回目にできた山とい う意味です。 古い時代の第一の火山は黒斑山(2,405m)・牙山(2,081m)、第二にできた火山の火口壁は西の前掛 山と東の前掛山の間にあります。 前掛山と東の前掛山の間に現在の第三の釜山とよばれる中央口丘ができました。 すなわち、第一の上に第二の山ができ、第二の上に現在の中腹以上の山体がつくられました。 小浅間山は高さ200mの溶岩円頂丘で、黒斑山の爆発破壊の後、噴出した石英安山岩からなる溶 岩でできている山です。 嬬恋村誌上巻、天明三年浅間山噴火史より抜粋 ● 浅間山の噴火 ● 天明3年(1783)4月9日、浅間山が突然噴火し、その後も何度となく灰を降らします。 5月26日に活動が激しくなります。 6月18日には北側の大笹鎌原方面に火山礫が10cmも積もります。 7月7日には鳴動をし、地震のように大地が揺れ、夕刻に噴出した火砕流は、北の斜面を流下し北 麓の密林地帯を埋め尽くし、火の海となります。 (吾妻火砕流) 7月8日には前夜の鳴動も激しくなり、夜が明けても空一面黒煙に包まれ夜のように暗くなりました 午前11時頃・浅間山が光ったと思った瞬間、真紅の火炎が数百メートルも天に吹き 上がると共に、大量の火砕流が山腹を猛スピードで下りました。 山腹の土石は溶岩流により削り取られ、土石流れとして北へ流れ下りました。 鎌原村を直撃した土石なだれは僅か10数分の出来事でした。 (鎌原火砕流) 家屋・人々・家畜などをのみこみながら、土石なだれは吾妻川に落ちました。 鎌原村の被害は全118戸が流失、死牛馬165頭、生存者は鎌原観音に逃げのびた 93人のみでした。 嬬恋村誌上巻、火山のすべてより抜粋 (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |