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<< 伝法院 鎮護堂 手水鉢−→鎮護堂−→加頭地蔵尊−→幇間塚−→神木・公孫樹−→水子地蔵尊 >> ● 伝法院通り ● 伝法院(国指定名勝) 浅草寺本坊・伝法院は「客殿」「大玄関」、大小の「書院」と貫首大僧正の「御居間」等の総称です。 客殿は、当山の回向道場・修行道場です。 庭園は江戸初期の小堀遠州作と伝わっています。 回遊式庭園は非公開。 ● 鎮護堂(ちんごどう) 鎮護堂は「おたぬきさま」の名で親しまれ、防火・盗難除、商売繁昌の守護神として知られている。 明治5年(1872)、浅草寺境内に住みついた狸の乱行を鎮めるため、浅草寺の用人であった大橋亘が浅 草寺貫首唯我韶舜(ゆいがしょうしゅん)と相談の上、自身の邸内に祀ったことがはじまりと伝える。 数度の移転を経て、同16年伝法院内の当地に再建した。 現在の入母屋造の本殿は、大正2年に再建されたものである。 祭礼は、毎年3月17・18日に行われている。 また境内には昭和38年に建てられた幇間塚がある。 幇間のことを「たぬき」と呼んだことから、この地に建てられたもので、碑には幇間の由来と久保田万太 郎の「またの名のたぬきづか春ふかきかな」の句が刻まれ、裏面には幇間一同の名が刻まれている。 平成18年3月 台東区教育委員会 ● 手水鉢(ちょうずばち/人気の泉) この手水鉢は、明治13年(1889)市川一門により奉納される。 製作者は不明で発起人は五代目市川新蔵。 市川新蔵(1861〜97)は歌舞伎役者。 8歳で四代目中村芝翫に入門、明治7年(1874)九代目市川団十郎の門下に就き、五代目市川新蔵を 襲名、立役の花形として団門四天王の一人と称された。 おたぬきさまは「たをぬく」と言われ、学芸成就のご利益があると、役者や芸能人にも信仰され、この手 水鉢も人気の泉と呼ばれ親しまれている。 お水舎での作法 ”お参りの前に手と口を清めましょう” 〜龍の口から受けた一杯のお水ですべての作法を行います〜 柄杓に口を付けてはいけません、 一、最初に右手に柄杓(ひしゃく)を持ち、左手を洗い清めます。 二、次に柄杓を左手に持ちかえて、右手を清めます。 三、再び右手に柄杓を持ち、左手に水を受けて口をすすぎ清めます。 四、最後に柄杓を立てて、柄に水を流し清めて元に戻します。 ● 鎮護堂(ちんごどう) ● 加頭(かとう)地蔵尊 造立年代は不明。 破損した頭部をつないであるため「加頭地蔵」の名がある。 首がつながるとの俗信から、サラリーマンらの信奉もある。 * (開運 目白地蔵尊)・・・(出世子育 おやす地蔵尊)・・・(加頭観世音菩薩) * (開運 目白地蔵尊)・・・(出世子育 おやす地蔵尊)・・・(加頭観世音菩薩) ● 幇間塚碑(ほうかんづかひ) 「幇」は、たすける意。 幇間とは、客の宴席に侍し、座を取り持つなどして遊興を助ける者。 たいこもち、男芸者のこと。 幇間有志によって、幇間物故者供養のため、昭和38年に建立された。 碑には、浅草生まれで、大正・昭和期の小説家・劇作家・俳人・久保田万太郎の俳句がある。 「またの名の たぬきづか 春ふかきかな」 ● 神木・公孫樹(いちょう) 推定樹齢4、5百年。 この公孫樹の木は、昭和20年の3月10日の東京大空襲の時、焼夷弾を浴びながらも、その猛火から鎮 護堂を守ったという神木である。 今でも木には当時の焼け跡が残っている。 戦争がこの世からなくなることを願いたい。 ● 水子地蔵尊 昭和53年9月25日建立。(浅草寺ご本尊示現1350年) お地蔵様は、地獄界から天上界に至る六道の苦の中に、生死を繰り返す私たち衆生の苦しみを救済す る仏さまで、修行僧のお姿をして右手に錫枝、左手に宝珠を持つ、慈悲深い菩薩さまである。 地蔵とは、万物を平等に育成する偉大な力の源である大地を現し、また母親の胎蔵を意味することから 地蔵尊が子どもたちを守るという信仰が生まれた。 江戸時代には、六道(善意の行為の結果として赴く六つの世界)救済のために、六地蔵尊が盛んに造像 奉祀され、空無上人が自ら六地蔵尊の一つを、浅草寺の支院、正智院に安置したと伝える。 生後間もない嬰児の健やかな成長を願い、また、受け難き人の命を宿しながら、育成し得なかった、多 くの尊い命の、後生安穏の悲劇を込め、ここに水子地蔵尊が建立された。 毎月24日のい地蔵さまのご縁日には、水子供養法要が行われる。 お地蔵さまのご真言・・・「おんかかか びさんまえいそわか」 (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |