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<< 弁天堂−→久米平内堂−→母子地蔵−→阿弥陀如来像−→ −→二尊仏−→地蔵菩薩像 阿弥陀如来像 >> ● 弁天堂 弁天山と呼ばれる小丘の上に立つこのお堂は、昭和58年に再建されたもの。 ご本尊は白髪のため「老女弁財天/ようじょべんざいてん」といわれる。 関東三弁天(神奈川県江ノ島・千葉県柏市布施と合わせ)の一つとされ、小田原北条氏の信仰が篤か った。 境内の鐘楼の鐘は、元禄5年(1692)五代将軍徳川綱吉公改鋳の江戸時代の「時の鐘」として芭蕉の 句「花の雲 鐘は上野か浅草か」で有名。 現在は、毎朝6時に役僧が撞き鳴らし、大晦日には「除夜の鐘」が点打される。 弁財天さまのご縁日は、「巳の日」で、堂内にてお参りができる。 金龍山 浅草寺 ● 久米平内堂(くめのへいないどう) 台東区浅草2丁目3番1号 浅草寺 久米平内は江戸時代前期の武士。 「武江年表」によると、天和3年(1683)に没したとされるが、その生涯については諸説あり、実像は明 らかではない。 平内堂には次のような伝承がある。 平内は剣術に秀でており、多くの人をあやめてきた。 後年、その供養のために仁王坐禅の法を修行し、浅草寺内の金剛院に住んで禅に打ちこんだという 臨終にのぞみ自らの姿を石に刻ませ、多くの人々に踏んでもらうことによって、犯した罪を償うために この像を人通りの多い仁王門付近に埋めたと伝える。 その後、石像はお堂に納められたという。 「踏付け」が「文付け」に転じ、願文をお堂に納めると願い事が叶うとされ、江戸時代中期以降、とくに 縁結びの神として庶民の信仰を集めた。 平内堂は、昭和20年3月の戦災で焼失した。 現在のお堂は同53年10月に浅草寺開創1350年記念として再建されたものである。 平成18年3月 台東区教育委員会 ● 母子地蔵建立の由来 第二次世界大戦末期ソ連参戦で混乱状態となった中国東北部(旧満州)で逃避行の末、命を落とした 日本人の数は20万人を超えると云われています。 酷寒の曠野を逃げ惑ううち母子が生き分かれになり、飢えや疫病に苦しみながら亡くなったり飢えや 疫病に苦しみながら亡くなるなどその悲劇は数知れません。 犠牲となられた母子の霊を慰め、またいまだ再会のかなわない親と子の心のよりどころとして二度と 戦争という過ちを繰り返さない事を祈念しつつ、ここに母子地蔵を建立いたしました。 1997年4月12日 願主/千野誠治 デザイン/ちばてつや 文字/森田挙次 まんしゅう地蔵建立委員会 まんしゅう地蔵建立応援団 中国残留孤児援護基金 ● 阿弥陀如来像 阿弥陀如来とは、無量の慈悲と智慧の光で世界を照らし、西方極楽浄土にあって我々を救済してくだ さる仏さま。 江戸時代前期の承応3年(1654)に、江戸の人々の願いで造立された。 なお、この年には浅草寺が江戸で初めての御開帳を行い、多くの人々で賑わった。 本像は、後の文化10年(1813)に編纂された「浅草寺志」にも載せられており、江戸時代より我々を見 守られている。 南無阿弥陀仏 金龍山 浅草寺 ● 二尊仏(浅草寺) 台東区浅草2丁目3番 浅草寺 「濡れ仏」の名で世に知られるこの二尊仏は、観音(右)、勢至(左)二菩薩の金銅坐像で、像の高さは 共に2.36m、蓮台を含めれば4.54mにおよぶ。 基壇の組石は、長さ約12m、幅6.12m、高さ1.5mとなっている。 蓮弁台座銘によれば、願主は上野国(群馬県)館林在大久保村の高瀬善兵衛。 かつて奉公した日本橋伊勢町の米問屋成井家より受けた恩を謝し、観音像は、旧主善三郎の菩提 を弔うため、勢至像はその子次郎助の繁栄を祈るため、貞亨4年(1687)8月に造立した。 江戸時代初期の優秀な鋳造仏の一つで神田鍋町の太田久衛門正義の作。 安永6年(1777)2月高瀬仙右衛門が施主、千住の高瀬奥右衛門が願主となり、修理したことが観音 像銘に追刻されている。 平成10年3月 台東区教育委員会 ● 地蔵菩薩像 阿弥陀如来像 中央にお地蔵さま、左右には阿弥陀さまが奉安されている。 中央のお地蔵さまは、我々衆生を苦しみから救ってくださる仏さま。 左右に奉安される阿弥陀さまは、西方極楽浄土にあって無量の慈悲と智慧の光で我々衆生を救済 してくださる仏さま。 この三体の仏さまは、江戸時代より穏やかに我々を見守られている。 右 阿弥陀如来像 寛文11年(1672)造立 中央 地蔵菩薩像 享保11年(1726)造立 左 阿弥陀如来像 延宝5年(1677)造立 金龍山 浅草寺 * (阿弥陀如来像)・・・(地蔵菩薩像)・・・(阿弥陀如来像) (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |