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<< 時の鐘−→松尾芭蕉の句碑−→扇塚−→添田唖蝉坊碑・添田知道筆塚−→都々逸塚 >> ● 時の鐘(浅草寺) 台東区浅草2丁目3番 江戸時代、人々に時刻を知らせる役割を果たしていたのが時の鐘である。 当初、江戸城内にあったが、江戸市街地の拡大にともない日本橋本石町にも設置され、さらには浅 草寺や寛永寺(上野山内)など、九個所でも時を知らせた。 鐘の大きさは、高さ2.12m、直径1.52m。 鐘銘によれば、撰文は浅草寺別当権僧正宣存で、元禄5年(1692)8月五代将軍徳川綱吉の命により 深川住の太田近江大藤原正次が改鋳し、その費用として下総(現、千葉県)関宿藩主牧野備後守成 貞が黄金二百両を寄進した。 この鐘は、時の鐘として、あるいは浅草寺の梵鐘として、さまざまな文学作品にも登場しているが中 でも、松尾芭蕉の句 「花の雲 鐘は上野か 浅草か」 は、あまりにも著名である。 昭和20年3月の東京大空襲で火を浴びたが無事に残り、今なお昔のままの姿を見せている。 なお、鐘楼は同空襲で焼け落ち、昭和25年5月再建されたものである。 平成11年3月 台東区教育委員会 ● 石碑が沢山たっています。 ● 松尾芭蕉の句碑 くわんをんの いらか見やりつ 花の雲 はせを 俳諧紀行文「奥の細道」などを著した松尾芭蕉は、寛永21年(1644)伊賀上野(現、三重県上野市)に 生まれました。 芭蕉という俳号は、深川の小名木川ほとりの俳諧の道場「泊船堂」に、門人が芭蕉一枚を植えたこ と由来します。 独自の蕉風を開き「俳聖芭蕉」の異名をとった松尾芭蕉は、元禄7年(1694)10月12日、大阪の旅舎 で51年の生涯を閉じました。 この句碑は寛政8年(1796)10月12日、芭蕉の103回忌に建立され、元は浅草寺本堂の北西、銭塚 不動の近くにありましたが、戦後この地に移建されました。 83歳翁泰松堂の書に加えて、芭蕉のスケッチを得意とした、佐脇嵩雪が描いた芭蕉の坐像が線刻 してありますが、200年の風雪を経て、碑石も欠損し、碑面の判読も困難となっております。 奥山庭園にある「三匠句碑」(花の雲 鐘は上野か浅草か)と共に、奇しくも「花の雲」という季語が詠 みこまれてあります。 平成2年4月吉日 浅草観光連盟 ● 扇塚 君諱徳太郎田代氏明治11年7月11日浅草に生る 6歳叔父初代寿輔の養子となり其薫陶を受く 同24年13歳西郷邸に於て英照皇太后御前舞踊鶴亀を演ず 同36年初代寿輔歿後大正12年迄花柳家元を継承 同38年柳櫻会創立公演98回に及ぶ 大正7年初代寿輔嗣子芳三郎に家元を譲り大12年自ら分家 家元となり昭和34年11月3日多年舞踊界に盡瘁せる功に依り紫綬褒賞を授与せらる 同38年1月12日歿す 享年86歳 安隆院達道寿徳居士と諡して深川増林寺に葬る 二代徳太郎故人の遺志に依り茲に此碑を建つ 昭和39年4月 二代花柳徳太郎 蘭 野田朗書 ● 添田唖蝉坊碑・添田知道筆塚 (浅草の会) 建碑 唖蝉坊碑 昭和30年11月28日 筆塚 昭和57年3月7日 添田唖蝉坊 本名・平吉 筆名は唖蝉坊のほか不知山人、のむき山人、凡人など。 神奈川県大磯に生まれる。 昭和19年2月8日歿。享年73歳。 明治20年代に壮士節の世界に入り、のち演歌の作詩、作曲、演奏に従事。 作品は「四季の歌」「ストライキ節」「ラッパ節」「あヽ金の世」「金色夜叉の歌」「むらさき節」「奈良 丸くづし」「マックロ節」「青島節」「ノンキ節」「生活戦線異状あり」など。 著書に「浅草底流記」「唖蝉坊流生記」「流行歌明治大正史」ほか。 添田知道 唖蝉坊の長男。 東京出身。 昭和55年3月18日歿。享年77歳。 父唖蝉坊とともに演歌の作詞、作曲に従事したあと作家活動に入る。 筆名は知道のほか、さっき、吐蒙。 演歌作品に「東京節」「復興節」「ストトン節」など。 著書に新調文芸賞受賞の長編小説「教育者」「利根川随歩」「演歌の明治大正史」などがある。 ● 都々逸(どどいつ)塚 (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |