(8)淡島堂→六角堂

                     


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   ●淡島堂     台東区浅草2丁目3番 浅草寺
       淡島堂は、元禄年間(1688−1703)紀伊国(現在の和歌山県)の加太神社勧請したものである。
       加太神社は淡島と呼ぶ小島に鎮座し淡島明神の俗称があるため、この堂も淡島堂と呼ばれている
       祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと)、堂内には両手で宝珠を持つ坐形の神像を安置する。
       淡島明神は、江戸時代より女性の守り神として、信仰を集めた。
       現在も毎年2月8日、ここで針供養が行われ、女性の参詣人が群集する。
       針供養は、日頃使いなれた針に感謝し柔らかな豆腐にさし供養する行事。
       かつては、この日に限り女性は針仕事をしない風習があった。平成8年3月 台東区教育委員会

                             


                  


  ● 写経供養塔
       浅草寺では、昭和33年の本堂落慶を記念して、「観音写経経運動」を発願しご信徒各位にお写経を
       お勧めしており、ご奉納いただいたお写経は毎年10月の写経供養会にてご本尊観音さまの御宝前
       に奉安され、供養されている。
       平成6年に造立されたこの宝塔型の写経供養塔には、その年にご奉納されたお写経の経題と巻数と
       を記した「目録」をご法安し、ご信徒各位のお写経の功徳を後世に伝え賛嘆している。

                                     


  ● 胎内くぐりの灯籠
       この石灯籠は「胎内くぐりの灯籠」として江戸時代から有名であったもので、この灯籠の下をくぐること
       で、子供の虫封じや疱瘡のおまじないとなるとされている。
       お子様をお連れでご参拝の折には、お子様にくぐらせてみてはいかがでしょうか。
       造立年代は不明。                                  金龍山  浅草寺

                             


  ● 天水桶
       太平洋戦争が激しくなってきた。
       昭和18年(1943)11月18日、浅草寺僧侶らによって夜儀が執り行われ、この天水桶内にご本尊の観
       音さまをお厨子ごと奉安し、本堂の地中深くに納めたため、ご本尊さまは戦火を逃れたという。
       戦後の昭和22年(1947)3月7日、ご本尊さまは再び地中より掘り上げられ、その無事が確認された。
       明和7年(1770)像立。               金龍山 浅草寺

                              


  ● 針供養之塔
       建立の記
         この針供養之塔は、大東京和服裁縫教師会が五十周年の記念事業として発願し全国和裁団体
         連合会の御協賛と裁縫をたしなまれる多くの方々の御助勢とにより、昭和57年10月17日に建立
         されました。
         省みますれば昭和10年2月8日「折れ針」への感謝と裁縫関係者にお呼びかけし、古来の伝承に
         従い浅草寺淡島様の御宝前で、供養の法会を営ませて頂いてより、次第に同じ志の方々が増え
         都内をはじめ近県からも「折れ針」を持って参詣され、懇ろに御供養なさる方々が、年々多くなり
         つつありますことは報恩の美風を普く世に伝えるためにも誠に有難く喜びに堪えません。
               大東京和服裁縫教師会・針供養之塔保存会会長  鈴木 f造
               針供養之塔担当責任者                  山崎 章司

                         


  ●浅草大平和塔
       建設趣意書
         思い出づる調べも哀し昭和20年3月9日の夜、B29150機の大空襲により浅草一帯は火の海となる
         地をなめるようにして這う火焔と秒速30mをこす烈風にあふられ、親は子を呼び、子は親を求むれ
         ど、なすすべもなし。
         おののき叫び逃げまどい、悪夢の如き夜が去れば……
         眼にうつるものは一面の焦土にて、 1木1草の生づるもなく、あわれ身を焼かれ路傍に臥す無辜の
         犠牲者は一万余柱を数う。
         当時その凄惨な状況は一片の新聞だに報道されることなく、敗戦後に生まれた子供達は戦争の
         惨禍を知るよしもない。
         いたましく悲しい夜もいつしか歴史の一駒として消えて行くであろう。
         よって我々はここに当時を偲び、不幸散華された御霊の安らけく鎮まりまさんことを祈り、二度とあ
         やまちを繰返すことなく永遠に世界の平和を守らんことを誓い、浅草観音の浄域にこの碑を建立
         する。以て瞑せられよ。
                   昭和38年8月15日          浅草大平和塔維持会
       台座の銘にはノーベル物理学賞の湯川秀樹博士の
          直筆「みたまよ、とこしえに、安らかに、われら守らん、世界の和」。
          塔上部の「和」は浅草寺中興第24世貫首、清水谷恭順大僧正の筆

                         

              (みたまよ、とこしえに、安らかに、われら守らん、世界の和 /湯川秀樹博士)

  ● 戦災供養地蔵尊

                                      


  ● 浅草寺六角堂一棟  (都指定有形文化財・建造物)
            所在地 浅草二丁目三番 浅草寺   指定  昭和27年11月3日
       六角堂は、『浅草寺誌』(文化10年編)元和4年(1618)の建立とあり、江戸時代初期の建築と考えられ
       浅草寺内で最古の遺構である。
       木造で単層の六角造り瓦葺き形式で、建物中央の直径は1.82mあり一面の柱真々は0.91mである
       建物の基礎は、六角形状に廻した土台を布石の基礎で支え、その下部に11段の石積みをした1.5m
       余りの井戸状の穴が掘られている。
       六角堂という特異な形式であり、都内においては違例の少ない建造物で、貴重な文化財である。
       もとは東方21.8mの場所(現影向堂の南基壇上に元位置の明示あり)に建っていたが、平成6年10月
       境内整備のためにここに移された。
          東京都文化財保護条例(昭和51年3月31日改正)により文化財の指定別を都重宝から東京都指
          定有形文化財に変更したので、石造標識については、このように読み替えてください。
                 平成8年3月25日 建設     東京教育委員会

                         


    日限(ひぎり)地蔵尊
       六角堂のご本尊。
       地蔵菩薩さまは、慈悲のお心で、この娑婆世界だけでなく地獄や餓鬼道にもおもむき、衆生を救わ
       れる仏さま。
       時にこの日限地蔵尊は、何かのお願い事に対し日数を定めて祈願すれば、古来より霊験があると
       される。
       造立年代は不明。 木造。        金龍山 浅草寺

                             


  ● 三峯社
       三峯神社ちは、秩父の森厳な聖地に社殿を構える古社である。
       天台修験の関東総本山とされ、殊に江戸時代には「三峯講」が各地に設けられ、盛んに参詣された
       文化10年(1813)に編纂された「浅草寺志」をひもとくと、境内各所に様々な神社が勧請され、三峯社
       も弁天山に建立されていたことがわかる。
          (戦災により焼失も再建)
       本社は三峯に寄せる経験な信心とともに、明治初年の神仏分離令以前の信仰の様子を現在に伝え
       ているのである。             金龍山 浅草寺

                  



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