(2)厨房 冷蔵庫 昭和40年ころ(ナショナル製) 昭和30年代に入ると冷蔵庫は、白黒テレビ、洗濯機の家電3品目と共に「三種の神器」とよ ばれ各家庭に急速に普及していきます。 昭和50年代になると、いわゆる2ドア式冷凍冷蔵庫が広まりますが、それまでは1ドア式の 冷蔵庫が主流でした。 かまど ガスコンロが普及する昭和30年代ころまで家庭では「かまど」と「七輪」などで煮炊きを行っ ていました。 この「かまど」の上には、ご飯を炊く道具である「釜」をのせてあります。 旧瀬戸邸の「かまど」はレンガで組まれており、また建物外部の赤レンガの煙突とつながっ ています。 水がめ 水道が普及するまで、一般家庭では井戸などから水がめに水をため、炊事などに愛用して いました。 この水がめは「石見焼」と呼ばれる島根県に伝わる焼き物で、江戸後期から明治・大正に かけて、日本海沿岸各地に広く浸透していたようです。 * (かまど)・・・(水がめ) 本膳・二の膳 昭和5年(本膳) この本膳(一の膳)・二の膳とも旧瀬戸邸に残されていた資料です。 本膳は4箱、二の膳は5箱あり、箱一つに5人分入っていますので、計20〜25人分のお膳が 用意されていたことになります。 タモ (昭和初期ごろ) 稚内の東浦地区で使われていた資料で、タモはニシンをモッコなどにつめる道具として使用 されていました。 以前は東浦小中学校の「ミニ民族資料館」で展示されていましたが、同校が平成22年に統 廃合となり、寄贈いただいた資料です。 前浜の沖揚げ 〜ニシンを「モッコ」にて運ぶようす〜 <1927(昭和2)年4月 声問 佐々木漁場> ニシン建網(定置網)漁により、獲れたニシンを積んだ汲み船が岸に着き、あゆみ板を渡り「 モッコ」と呼ばれる木のカゴにニシンを詰め、背負って前浜へと降すようすが写しだされてい ます。 ニシンの群来は夕暮れから夜半が多く、夜明けを待って沖揚げ作業がはじまりました。 建網漁の基本単位である「一ケ統」の沖揚げは、漁夫25人前後と臨時の男性が7〜8人、 モッコ背負い女性20人ほどで行われていたようです。 衆は汲み船でニシンを運ぶ作業や、モッコにニシンを入れるような力仕事を担当し、女男 衆らは、1日中モッコでニシンを担ぎ運びました。 当時、ニシンが大漁の日には、学校が「ニシン休み」となり浜はモッコを背負った女性や、 作業を手伝う子供たちの賑やかな声が聞こえたと伝えられています。 モッコ 昭和初期ころ 稚内の中央地区の漁家から寄贈いただいた資料で、稚内のニシン建網(定置網)漁で使用 されていたものです。 モッコは、主に生ニシンを背負って運ぶ道具としてつかわれていました。 (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |