(4)展示コーナー・・・沢山の貴重な資料が展示されています。 漁港ワッカナイの偉容(上)、稚内中央魚菜市場(下) (昭和30年ころ) 1953(昭和28)年、稚内市第1・第2副港海岸埋立工事が竣工し、現在の稚内副港市場の位置に、 稚内中央魚菜市場が建設されました。 稚内地区の沖合底曳網漁船は戦後間もない頃、主として稚内・利尻礼文両島付近を漁場とし、カ レイ・マダラ・ニシン等を漁獲していましたが、隻数増加、トン数増大と需要の拡大に伴って、スケト ウダラ・ホッケ等が主要魚種となり、漁場を遠方へと延ばしていきます。 昭和29年ころから「沿岸から沖合へ、沖合から遠洋へ」という風潮が一般化し、国や道もこのスロ ーガンを進めていきました。 その後サハリンや沿海州において試験操業や調査船派遣を行い、次々と有望漁場発見していき ます。 なお沖合底曳漁船の大きさは、戦後の約20tからはじまりますが、新漁場開拓による航続距離の 増大や海難防止、乗務員の居住スペースの改善などに伴い、昭和30年に65t、同33年に83t、同 39年には96tへと増大していきました。 稚内市におけるニシン定置網漁業建てば場図 〜ニシン漁と「ソーラン節」〜<1954(昭和29)年> ニシンの漁獲高は、1897(明治30)年を最高にして盛衰を繰り返します。 宗谷地方においても1935(昭和10)年までニシンは水産の中心にありました。 しかし1953(昭和28)年ニシン定置網は最後の”群来(くき)”を迎えることとなります。 上の図は昭和29年の定置網事業者の屋号や魚場名を示したもので、まだ多数の魚場が存在し ていました。 その後、近海でとれなくなったニシンは、しだいに「幻の魚」と呼ばれていきます。 一方でニシン漁の労働歌として「ニシン沖揚げ音頭」があります。 歌は激しい労働が繰り返される漁の士気を鼓舞し、調子を合わせる為に自然発生的にうまれ、 またその土地独特の節回しや歌詞がつけられています。 その「ニシン沖揚げ音頭」としても知られる「ソーラン節」ですが、近年その曲調をロックテンポに アレンジした曲があらわれると稚内南中学校がこの曲に着目し、ニシン漁での労働作業の動作 や形を踊りに取り入れた「南中ソーラン」を創作しました。 「南中ソーラン」はそのダイナミックさから、稚内の学校のほか日本中の学校でも踊られるように なり、今では稚内発の郷土芸能として全国の学校との「南中ソーラン」交流が盛んとなっています 沖合漁業の根操地(昭和10年代ころ:稚内港) 沖合漁業は、大正時代から漁船の動力化により急速な発展をとげます。 稚内での底曳のさきがけとなる動力船手繰のはじまりは、1914(大正3)年上野定次郎の[稚丸] (14t)といわれていますが、当時の稚内は漁獲物の販路が限られ経営上の採算が難しく数ヶ月 で中止となります。 1923(大正12)年には服部清二郎が「伊勢丸」(16t)で試験操業を行い好成績をあげ、その後19 25(大正14)年には稚内の底曳船は43隻となり、同時期、利尻にも38隻が在籍していました。 しかし操業船の急増と生産の向上により、魚価の値崩れが到来し、経営不振に陥る船主が続 出するなど、浮き沈みが激しい状況もみられました。 利尻の底曳船も苦しい経営を強いられ、1931(昭和6)年には全船、その根拠地を稚内・枝幸・ 紋別へと移していきます。 一方で漁船は20tから30tへと大型し、次第に機船底曳漁業の形態が整えとられていきました 漁船の大型化に伴い漁場もひろがり、樺太・沿海州・オホーツク方面にまでおよび1943(昭和 18)年には28隻が出漁し、年間の漁獲2万4千tをあげるまで発展をとげていきます。 ニシン沖刺し網漁船の水場場面<1971(昭和46)年4月:稚内港> 稚内の漁業において江戸期から昭和期をとおし、ニシンが重要な魚であったことは特筆されます それは底曳漁業が発達した後も、稚内沿岸はニシンが重要な魚であることに変わりなく、その後 ニシン定置網漁の衰退にともない、転換漁業として動力船によるニシン沖刺し網漁業が発展して いきます。 当時、稚内の中間的な経営体では、90t型の漁船で3月〜6月ころまでニシン沖刺し網を操業し、 7月〜11月まで中型イカ釣りを操業するものが代表的なタイプだったそうです。 沖刺し網の主要漁場はサハリン西部の北緯48度ないし北緯50度で、イカ釣りは日本海の北陸 沖から北緯50度、太平洋の道東沖から八戸沖までと、広範な漁場を操業しました。 一方において大型の経営体では漁場の拡大により漁船数が増加し、昭和40年頃には300t以上 の大型船も加わり、北へと漁場が拡大します。 しかし昭和46年の日ソ漁業委員会において、北緯55度以北の抱卵ニシンの漁獲は調査船19隻 を残して全面禁止となり、6月下旬から索餌ニシンのみの漁獲となりました。 さらに昭和52年のソ連200海里設定によって、200海里内のニシン漁獲は全面禁止となり、その 漁場は失われていきます。 宗谷に水路を確保される底曳船<1972(昭和47)年3月> この写真は1972(昭和47)年のもので、この年は3月に入ってヤマセが吹き6日間、稚内港のな かにも大量の流氷が押し寄せ、底曳船が動けなくなり、巡視船「宗谷」が釧路保安部より救出 に駆けつけました。 この写真は北防波堤ドームの先で撮影されたもので、砕氷船である「宗谷」が厚くとざされた流 氷を砕き閉じ込められた底曳船のため水路を確保するようすと、また一目そのようすを見ようと 多くの市民が集まっている光景が写しだされています。 ちなみに「宗谷」は、第一次から第六次まで初代南極観測船として活躍し、1962(昭和37)年か ら巡視船として活躍しました。 これらの任務を終えた宗谷は1979(昭和54)年から東京お台場の船の科学館にて展示されてい ます。 なおタロ・ジロの訓練地でもあった稚内は、南極とも大変ゆかりが深く、稚内市青少年科学館で は「宗谷」から現在の「しらせ」までの南極観測船のほか、南極観測に関する資料の展示を行っ ています。 そちらもぜひご覧になって下さい。 第一次減船前〜出航待機中の底曳船、およびニシン沖刺し網漁船〜 <1977(昭和52)年5月> 1976(昭和51)年、稚内市の沖合底曳網漁船は、96t型2隻、124t型54隻の計56隻を数え、全道 第一の勢力でした。 この年の水揚げ高は、53万9995tで稚内市にとって史上最高を記録します。 漁業生産は昭和42年から同51年までの10年間に2倍以上の増加を示し、生産額では約6倍と、 昭和40年代から50年はじめにかけて、稚内の漁業が大きく飛躍したことがうかがえます。 しかし1977(昭和52)年3月、ソ連200海里宣言は同海域に依存する地域に大きな衝撃を与えま した。 その後、日ソ漁業交渉は5月末にようやく決着を見ましたが、この間の4月と5月の2ヶ月間は、 日本漁船によるソ連200海里水域への出漁は禁止されました。 交渉妥結後、水産庁は全道の沖合底曳網漁船198隻中、全体の約2割にあたる37隻の減船隻 数を示します。 結果としてソ連海域への依存度が高いなどの理由から稚内は56隻中、2割以上にあたる14隻の 減船を引き受けざるを得ない状況となっていきます。 北洋漁場危機突破集会<1986(昭和61)年4月:稚内市副港前> この写真は1986(昭和61)年の春、稚内市副港前で行われた北洋漁業危機突破集会のようすで す。 大勢の観衆の前で演説しているのは、羽田孜農林水産大臣(当時)、写真正面で右手に杖をもっ ているのが瀬戸常蔵、その右後方にいるのが横路孝弘北海道知事(当時)、そして瀬戸氏の左と なりでブルーのシャツを着ているのが浜森辰雄稚内市長(当時)です。 日ソ漁業交渉は、1985(昭和60)年の年末からモスクワで開かれ、難航を重ねた結果、翌年4月 に妥結しました。 その結果は、前年度の漁獲割り当て60万tの実績が1/4以下の15万tとなり、減船内容は、道内 全体で現有隻数161隻を88隻とし、73隻の減船を道内10地区に振り分けました。 稚内は現42隻から23隻減船し19隻の残存となり、この第2次減船においてさらにその数を大幅 に減らすこととなります。 第1次そして第2次減船を通して、稚内の漁業や水産加工業などを中心とした稚内の経済に与え た影響は計りしれないものとなりました。 (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |