(5)展示コーナー3

                    


    (5)展示コーナー・・・沢山の貴重な資料が展示されています。

         稚内におけるニシン沖揚げのようす<1927(昭和2)年4月 声問 佐々木漁場>
            この写真は、1927(昭和2)年の春、稚内市声問地区の佐々木漁場で撮影された昭和初期のニ
            シン建網(定置網)漁のようすを示す写真です。
            沖にある枠網から汲み船と呼ばれる船に「大タモ」で、ニシンを汲みあげる姿が写し出されてい
            ます。
            ニシンは春告魚とも呼ばれ、雪深く長い冬から春を告げる魚でした。
            ニシンが稚内において漁業として扱われるようになったのは、江戸時代の宗谷場所のころにま
            でさかのぼります。
            ニシンは初め、北海道の西南部が主要な漁場でしたが、明治から大正にかけて漁場が日本海
            沿いに北上していきます。
            明治・大正・昭和20年代までの間、春となれば「ニシンヤン衆」がどっと入り込み、浜一帯は一
            気に活気づいたと言われています。
            稚内に鉄道がとおるまでニシンの製品輸送は、海上に限られていたために、水揚げされた約8
            割はニシン粕に製造されていました。

                           


         稚内と「にしん街道」 <2011(平成23)年12月>
            かつて北海道の日本海側は、ニシン漁でにぎわっていました。
            北海道の南に位置する松前町から、最北端の稚内市まで約700kmを「にしん街道」として歴史
            を学びつつ観光PRしようと2011(平成23)年12月、稚内副港市場、港側に街道の標柱が設置さ
            れました。
            この事業は松前町・上ノ国町・江差町でつくる広域観光推進協議会が中心となり、道内の日本
            海側に設置しています。
            稚内は21番目の設置となりました。
            なおこの標柱が設置されている稚内副港市場では、この「にしん街道」の標柱のほか戦前、樺
            太と稚内を結んでいた稚泊航路に関する展示も見学できます。
            是非そちらもご覧になってください。

                           


         稚内 副港前のにぎわい<1968(昭和43)年11月>
            稚内は1967(昭和42)年、年間22万t、水揚げ金額にして66億円をほこり、まさに日本有数の水
            産のまちへと発展していきます。
            この年、主として海難防止の見地から運動が進められていた124t型船が建造許可となり、稚内
            の沖合底曳漁船はさらに大型化していきました。
            当時、底曳漁船は80tから120t級の近海底曳64隻、300t型の遠洋底曳16隻の計80隻が稚内港
            を根拠地に出漁して、稚内全漁獲高の約80%を占めていたといわれています。

                       


         釧路港、出航前の北洋底曳転換船<1969(昭和44)年1月>
            当時、稚内を船籍とする底曳船の中には、釧路港や宮城県の気仙沼港から、遠洋へと直接向
            かう船も見られました。
            この写真の底曳船は通称、北転船(北洋底曳転換船)と呼ばれる300t型の非常に大きな船です
            この北転船には30人ほどの船員が乗り込み、1月〜4月ころまでの間、釧路港を出発して2日ほ
            どかけ西カムチャッカ方面に向かい、そこで数日操業し、また釧路に戻って荷揚げする行程を
            繰り返していたそうです。
            この時期は、主にスッケトウダラをとっていました。
            この北転船は5月になると、今度は釧路から千島方面へと向かい、千島列島から北上してベー
            リング海へと4日ほどかけて航海したそうです。
            ここでは60〜70日ほど操業し、その場で魚の頭や尾を切り、冷凍した魚を満載して、日本へも
            どってきたそうです。
            まさに動く水産加工場ともいえるでしょう。
            魚を満載した船は釧路には戻らず、直接、東京晴海埠頭へと入り、2日かけ巨大な冷蔵庫へ一
            気に数百tもの魚の荷揚げをしたそうです。

                       


         宗谷中学校、水産クラブの「タコの燻製づくり」  〜水産実習をとおした産業教育〜
            宗谷・大岬・富磯の三中学校を統合して1967(昭和42)年に開校した宗谷中学校は、その翌年に
            市の教育委員会から産業教育実践校の指定を受け、創造力豊かな漁業後継者の育成を目指し
            て水産実習に力をいれています。
            春・秋のノリ養殖実験から手がけた実践は年ごとに広がり、タコ・ホッケ・サケなどの燻製づくりや
            コンブ・アワビ・ホタテの養殖、ホッカイシマエビのふ化放流、ウニ・ツブのふ化、魚介類の生態観
            測などにとどまらず、漁船運用、漁具使用、漁法学習、実習船の整備保存まで幅広い取り組みを
            行っています。
            同校では、水産増養殖研究所・燻製実習棟などを建設し施設の整備を進めたほか、毎年のよう
            に水産クラブのある道内の各中学校と交流を深めていきました。
            こうした成果が高く評価され、第3回北海道青少年科学振興賞(文化生活部門)、北海道教育実践
            表彰などの栄誉を受けています。
            漁業・水産のまちならではの、地域の生活に根差した特色のある教育といえるでしょう。

                       


         平成の副港のようす 〜水産資源と漁場を守る漁業へ〜 <2000(平成12)年:稚内市副港>
            この写真は、2000(平成12)年のもので、当時稚内港には底曳船8隻(オッター船2隻・かけまわし
            船6隻)が船籍していました。
            現在、世界の状況のなかで水産物消費量は、年々増加傾向にあり、乱獲を防止し資源の保全と
            回復につなげていくための「資源管理」の必要性が問われています。
            国の方針のなかでも水産資源は、魚種や漁業種類の特性に応じて水産資源の管理を行うことに
            より、永続的な資源の利用が可能になるとされています。
            稚内のおいても、国の「省エネ対応・資源回復等推進支援事業」の一環として計画的に減船を行
            うことにより水産資源保護を目指し、2012(平成24)年3月に、オッター船1隻が減船となりました。
            その結果、2012(平成24)年現在、稚内基地の底曳船は、オッター船1隻、かけまわし船6隻の計7
            隻体制となっています。

                       


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