(画像をクリックすると大きくなります) (駿府城公園) |
<< (一)駿府城の歴史を知ろう! >> ● 巽櫓(たつみやぐら) 巽櫓は、駿府城二ノ丸の南東角に設けられた三層二重の隅櫓で、十二支であらわした巽(辰巳)の方 角に位置することから「巽櫓」と呼ばれました。 駿府城には二ノ丸西南の角に「坤(ひつじさる/未申)櫓」もありました。 櫓は戦闘時には戦闘の拠点となり、望楼、敵への攻撃、武器の保管などの役目をもっていました。 焼失後、寛永15年に再建された巽櫓は幕末近くの安政大地震によって全壊してしまったと考えられ ています。 全国の城の櫓建築でも例の少ないL字型の平面をもち、駿府城の櫓の中では最も高く、”勝れた”櫓 であったと言われています。 東御門前の堀で見つかったシャチホコ 駿府城二ノ丸東御門の青銅製鯱(静岡市指定文化財) 昭和44年に駿府城二ノ丸堀から発見されたシャチホコです。 東御門の渡櫓の一方に飾られていたと推定されます。 青銅(銅と錫を混ぜてできた合金)で造られており、高さ1.4m、重さ480kgあります。 発見当時は、胴の一部に金箔がみられたようです。 駿府城の豪壮な姿を知ることができる貴重な資料です。 石州流華道と駿府徳川とのかかわり 石州流華道の流祖片桐石州公は、静岡市駿河区丸子善願寺に葬られている片桐且元(豊臣秀吉に 仕え、賎ケ槍で勇名を馳せた武将。晩年、豊臣家の使者として駿府に申し開きに来るが、徳川家康に 拒否された。 1年後に丸子宿で没したともいわれる。)を伯父に持ち、自らは徳川に仕えた奉行である。 幕府の命により阿倍川の治水事業として薩摩土手(現在の薩摩通り)の建設をはじめ、東海諸国の治 水奉行として慶安〜万治(1651〜1659)年間、駿府に滞在していた。 茶の湯を桑山宗仙に、生け花を小堀遠州に学んだ石州公は、遠州流系の花に改造を加えて石州流 華道を創始。 弟の歓寿軒宗茂が初代家元となった石州流華道は、武家社会のたしなみとして茶の湯と共に諸大 名や家臣達に広く浸透した。 四代将軍家綱の時代には二代目歓寿軒宗寂が駿府に移り住み、しっかりと当地に根を下ろし、現在 まで静岡を中心に脈々と伝承されてきた流派である。 ● (一)駿府城の歴史を知ろう! 葵紋の入った瓦(静岡市蔵) 徳川家の家紋が入った金具(静岡市蔵) 駿府城から発掘された飾り金具です。 徳川家の家紋である「三ツ葉葵」の紋が入っており、大きさから家具などの飾り金具として使われてい たと考えられます。 築城図屏風 城造りの風景が描かれた屏風で、築城作業時の城下の喧噪が詳しく描写されています。 絵師や作成年代等の詳細は不明ですが、慶長12年(1607)の駿府城天下普請の様子が描かれてい るものと推定されています。 (左)工事視察でしょうか。武士風の人物が馬に乗っています。 (中)植木を運ぶ人。城内に植えるのでしょうか。 (右)修羅(運搬用のそり)に巨石を乗せて運んでいます。 右側には修羅をい引く大勢の人々、石の上には音頭をとる人達が描かれています。 (左)麺を打つ人、おむすび(?)を握る人。 (中)木材を運ぶ人達。 (右)石垣造りの様子。テコを使って位置決めをしています。 手前には、そろばん片手の人物。何の値ぶみでしょう。 (左)石材を運ぶ様子。牛車、台車、人力・・・・。 (右)小石(石垣の裏込め石?)を運ぶ人達。 築城図屏風(名古屋市博物館蔵) * (発掘調査で見つかった矢金(楔/くさび))・・・(駿府城の発掘調査で発見された金づち) (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |