(画像をクリックすると大きくなります) (駿府城公園) |
<< 東御門−→東御門橋−→弥次喜多像 >> ● 巽櫓を出て、東御門に向かいます。 東御門は、駿府城二ノ丸の東に位置する主要な出入口でした。 この門は、二ノ丸堀(中堀)に架かる東御門橋と高麗門、櫓門、南・西の多聞櫓で構成される桝形門 です。 東御門の前が安藤帯刀(あんどうたてわき)の屋敷だったことから「帯刀前御門」、また、台所奉行の 松下浄慶(まつしたじょうけい)にちなんで「浄慶御門」とも呼ばれ、主に重臣たちの出入口として利用 されました。 東御門は寛永12年(1635)に天守閣、御殿、巽櫓などと共に焼失し、同15年(1638)に再建されました 復元工事は、この寛永年間の再建時の姿を目指し、復元したものです。 平成8年3月 静岡市 * (振り向くと) * (振り向くと) *(右画像/パンフレットより) ● 弥次喜多像 十返舎一九と「東海道中膝栗毛」 「東海道中膝栗毛」の作者十返舎一九(1765〜1831)は、ここ駿河の府中(現静岡市)出身で、江 戸文学における戯作者の第一人者であり、日本最初の本格的な職業作家といえます。 1765年、駿府町奉行同心 重田与八郎の長男として両替町で生まれました。 本名は重田貞一、幼名を市九といいます。 1783年大阪へ行き、一時は近松余七の名で浄瑠璃作家としても活躍しましたが、その後士分を 捨て、1794年再び庶民文化華やかな江戸に戻り戯作の道に専念し多くの黄表紙や洒落本など を書きました。 「東海道中膝栗毛」は、1802年に初編(初編は「浮世道中膝栗毛」のと改題)、以降毎年一編ず つ8年にわたって書き続け、1809年全八編を完結しました。 この膝栗毛は爆発的人気を呼び、休む間もなく「続膝栗毛」の執筆にとりかかり、1822年の最 終編までに実に21年間に及ぶ長旅の物語として空前の大ロングセラーとなりました。 物語は、江戸神田の八丁堀に住む府中生まれの弥次郎兵衛(左の像)と元役者で江尻(現清水 市)出身の喜多八(右の像)という無邪気でひょうきんな主人公二人が、江戸を出発して東海道を 西へ向い、伊勢を経て京都・大阪へと滑稽な旅を続ける道中話で、今でも弥次喜多道中と言え ば楽しい旅の代名詞となっています。 当時の名物として阿倍川餅やとろろ汁も登場。 また、府中では、夜は弥勒手前の阿倍川町(二丁町といった)の遊郭へ出かけたり、鞠子(現丸 子)では、とびこんだ茶屋の夫婦喧嘩に巻き込まれ、名物とろろ汁を食べるどころか早々に退散 したといった話が語られています。 一九は1831年没 享年67歳。 墓所は東陽院(現東京都中央区勝どき)にあります。 ここ府中は江戸から44里24町45間(約175キロメートル)19播目の宿です。2002年2月 静岡市 (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |