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<< 神橋−→右近の橘、左近の桜−→主郭土塁−→一の鳥居−→ −→太宰治の愛でた桜−→参道−→奇木「三葉の松」−→手水舎 >> ● 神橋に向かいます。 (左画像/由緒書) ● 神橋 ● 国指定史跡 武田氏館跡(躑躅ヶ崎館跡)・・・階段右側 指定年月日 昭和13年5月30日 所在地 甲府市古府中町・大手3丁目・屋形3丁目 管理団体 甲府市 「武田氏館」は、「躑躅ヶ崎館」とも呼ばれ、武田信玄の父、信虎が、永正16年(1519)に石和からこの 地に、館を移したことから始まります。 その後、信玄・勝頼と、武田家当主の館として使われました。 そして武田家の滅びた後、文禄年間に館の南方に今の甲府城が作られるまでの、約70年にわたり、 この館一帯は、領国の政治・経済と文化の中心地として発展しました。 館は、一辺が約200メートルの正方形の主郭(現武田神社)を中心に、その回りのいくつかの副郭とに よって構成された平城形式のものです。 館の回りには、家臣の屋敷が建てられ、南方一帯には格子状に整備された道路にに沿って、城下町 が開けていました。 この館と城下町は、戦国時代の大名の本拠として、第一級の規模と質を誇るものです。 平成元年3月 文化庁 山梨県教育委員会 甲府市教育委員会 ● 神橋を渡った左右に 「右近の橘、左近の桜」 が植えられています。 京都御所の「紫宸殿」に植えられた橘と桜を指し、宮中警護の左近衛府・右近衛府が橘と桜の近くに 配陣していたことが始まりの言葉、と言われています。 *(右近の橘/階段左側)・・・(左近の桜/階段右側) ● 主郭土塁(しゅかくどるい) 参道は、武田神社創建時に切り開かれた通路であり、武田氏館(躑躅が崎館)の正門は「大手」と呼 ばれる東側である。 本来、ここは主郭の南土塁が続いていた。 階段両脇にある神社石積みの修理に伴い土塁断面を確認することができ、地層の観察により、館が 築かれてから廃絶するまでに掘や土塁の修理が拡張が5回にわたっていることが判明した。 2019.03 甲府市教育委員会 ● 一の鳥居 ● 太宰治の愛でた桜 武田神社から甲府駅へ向かう途中の住宅街甲府市御崎町(現・朝日5丁目)に、「太宰治僑居跡(きょ うきょあと)」の石碑が建っています。 ここで、作家・太宰治は昭和14年1月より約8ヶ月の間、妻、美知子と新婚時代を過ごし「富嶽百景」 「女生徒」「新樹の言葉」などの作品を執筆しました。 夫婦生活を送る中で、太宰は当神社の例祭と境内の桜についても「春昼/しゅんちゅう」という作品 に残しています。 「春昼」 太宰治 四月十一日 前略 けさは上天気ゆえ、家内ゆえ、家内と妹を連れて、武田神社へ、桜を見に行く。 母を誘ったのであるが、母は、おなかの工合い悪く留守。 武田神社は、武田信玄を祭ってあって、毎年、4月12日に大祭があり、そのころには、ちょうど境内 の桜が満開なのである。 四月十二日は、信玄が生まれた日だとか、死んだ日だとか、家内も妹も仔細らしく説明してくれるの だか、私には、それが怪しく思われる。 サクラの満開の日と、生まれた日と、こんなにピッタリ合うなんで、なんだか、怪しい。 話がうますぎると思う。 神主さんの、からくりではないかとさえ、疑いたくなるのである。 桜は、こぼれるように咲いていた。 「散らず、散らずみ。」 「いや、散りず、散りずみ。」 「ちがいます。散りみ、散り、みず。」 みんな笑った。 お祭りのまえの日、というものは、清潔で若々しく、しんと緊張していていい ものだ。 境内は、塵一つとどめず掃き清められていた。 後略 ● 参道 ● 奇木「三葉の松」 この三葉の松は信玄公が信仰しておりました高野山より、公を慕ってこの地に種子が飛来落種し、 今日に至ると伝えられております。 三葉の松は全国でも珍しく、黄金色になり落葉することから「金運」の御利益があると言われてお ります。 また、そもそも松は古来より「延命長寿」の縁起もあり、この松葉を身に付ける事により御利益を戴 き、招福必来と言われております。 武田神社社務所 ● 手水舎 手水の作法 1、右手で柄杓に水をくみ、左手にかけ清める。 2、柄杓を左手に持ちかえ、右手を洗い清める。 3、柄杓を右手に持ちかえ、左の手のひらに水を受け口をすすぐ。 (決して柄杓に直接口をつけてはいけません) 4、終わりましたら、水をもう一度左手にかけて流します。 (全景は、パノラマでご覧ください) (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |