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<< 大手門東史跡公園−→御隠居曲輪南スポット公園−お屋形さまの散歩道→3つの祠 >> ● 大手門東史跡公園 武田氏館跡大手 現在地は、戦国時代の武田氏館の正門にあたる大手に位置しています。 大手の発掘調査では、大手門を守備するために築かれた大手石塁が検出されるとともに、その 下層からは武田氏の時代に築かれたと考えられる三日月堀などが発見されています。 そのため、大手の整備では武田氏滅亡後に甲斐を支配した豊臣秀吉の家臣によって築かれた 大手石塁などを復元整備しました。 大手三日月堀 武田氏滅亡後に築かれた大手石塁と重複する位置から三日月堀と呼ばれる半月形の堀跡が確 認されています。 三日月掘は、丸馬出と呼ばれる城館の出入口を守る施設の一部として築かれたもので、本来は 内側に土塁を伴っていたと思われます。 丸馬出は、武田氏が支配した長野県や静岡県、群馬県北西部などの城郭に数多く存在すること から、武田氏が用いた築城技法の1つと考えられています。 図示した大手三日月堀の範囲は、北側を除き部分的な確認調査の成果をもとに全体規模を想定 しています。 南側については、大手石塁と重複しているために未調査となっていますが、三日月堀の埋め立て が不十分であったために発生した地盤沈下による石垣の崩落が石塁東面で確認されています。 よって、大手三日月堀の規模は、全長約30m、堀幅約4m、深さは確認された範囲で約2mでした 大手石塁の下層に埋もれていたこともあり、古絵図や文献にも記録されず、発掘調査以前はその 存在を確認することはできませんでした。 発掘調査の結果、大手三日月堀は、写真(1)のように堀の中に多数の礫石が投げ込まれた状態 で発見されましたので、真上に位置する大手石塁との関係も考慮すると、武田氏から徳川氏・豊 臣氏への領主交代によって人為的に埋め戻され、破却されたと考えられます。 大手石塁 武田氏館の正門である大手門を守るために築かれた総石垣の構造物です。 二箇所に階段が取り付けられていることから、上部には何らかの建造物が存在したと考えられま す。 石垣は自然石を横方向に配置することを意識して積み上げた野面積みと呼ばれる技法で積まれ ており裏側には石垣の安定と排水を意図した無数の栗石が詰め込まれています。 主に安山岩が使用されていますが、花崗岩まども混在することから、近隣で産出する石材から集 められたと考えられます。 石材には矢穴などの加工の痕跡はなく、自然石がそのまま使用されているのも特徴の一つです。 このような栗石有する石積みの技術は、戦国時代の甲斐には存在しなかったものであり、西日本 から導入されたと考えられます。 そのため、大手石塁は、武田氏滅亡後の甲斐を治めた徳川氏か豊臣氏配下の大名によって、新 たに築かれた可能性が高いと考えられます。 発掘調査当初は、石垣東面以外の多くは後世の開発により失われていましたが、古絵図なども参 考にして欠損箇所は積み足し、破損・劣化が著しい箇所は解体修理して往時の姿に復元しました ● 御隠居曲輪南スポット公園方面へ ● 御隠居曲輪南スポット公園 ● 西曲輪北側枡形虎口方面へ向かいます。(この道は、「お屋形さまの散歩道」です) ● 道の左側を少し入ると3つの祠がありました。 ● 元の道に戻り、進んでいくと分岐になり、左折し「西曲輪方面」へ。 (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |