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<< 木橋/引き橋−→本丸−→霞神社−→金毘羅社−→ −→(12)案内板(滝集落から本丸への侵入路) >> ● 標識「←本丸 中の丸→」に従い本丸方面へ行くと、木橋がみえます。 ● 木橋/引き橋 唯一尾根続きのこの場所は、滝山城の弱点であったと考えられる。 そのため、防御は厳重を要した。 この橋も「引き橋」だったと思われる。 橋の下の堀は大池の土手とつながり、一大防御線を考えた縄張(城の設計)になっていた。 * (右画像/振り返って・・中の丸方面) ● 国史跡 滝山城跡・枡形虎口 (木橋を渡り右側) この場所は、中の丸から引橋を渡って本丸に入る虎口(城の出入り口)という部分に当たります。 虎口は、防御と攻撃の両方の機能を備えてたもので、中世末において発達したものですが、滝山 城の虎口は、周囲を土塁で方形に囲った枡形虎口と呼ばれるもので、北条流の築城の特徴の一 つと言われています。 滝山城跡は都立公園として整備されていますが、東京都では、平成8年11月5日〜12月28日にわ たって、枡形虎口の発掘調査を行いました。 調査は東京都教育委員会・八王子市教育委員会の指導の下に行われ、現在は元通りに埋め戻し てあります。 調査の結果、現状の地表から深さ約1.2mのところに、30〜40cmの偏平な川 原石を敷きつめた 通路が発見されました。 その幅は引橋側で0.4m、右に直角に曲がると約3.0m、さらに左に曲がると 約2.0mとだんだん狭 くなっていました。 引橋側には、南側と西側にL型状に側溝がつき、その先は一部暗渠となって土塁の断面からは赤 土(ローム)と黒土を交互に突き固めた版築も確認されました。 * (左画像/土塁の断面) 水平に土を盛り上げていることが分かります。 石畳の面から測ると、土塁の高さは約4.7mにもなります。 * (右画像/側溝と暗渠) 本丸内に降った雨水を流すための施設と思われます。 一部は暗渠で土塁の中を通しています。 * (左画像/枡形虎口に埋められた石) 枡形虎口は大量の石で埋められていました。(写真ー4) これは、新しく築いた八王子城に移る際に、滝山城を廃城にしたときのものと考えられます。 写真ー5はその石を一か所にまとめた状態の写真です * (中画像/本丸入口付近) 通路の幅は曲がるごとに狭くなり、この部分では約2.0mとなります。 これは、大勢の敵の侵入を防ぐための工夫と思われます。 * (右画像/枡形虎口全景) 右手前が引橋・中の丸、左手奥が本丸になります。 ● 本丸の広場になります。 * 「滝山城本丸跡の碑/左側」と「史跡滝山城趾/右側」 瀧山城本丸址の碑」 此の城は関東の名城といわれ 天文5年(1536)北条氏康、同21年(1552)上杉謙信 永禄 12年(1569)武田信玄の諸豪からの猛攻を受けている 大永元年(1521)始めて石定重之を築き 定久之を受け ついで北条氏照の居城となった 尚 この城の城下町は八王子市の発祥地である。 八王子市長 野口義造 * 石碑 * 井戸(本丸南側) 鉄製の枠に囲まれた石積みの深い井戸跡。 * 「沢井益三氏の句碑」 (霞神社階段左側) 多摩川の 風吹上げて 夏木立 氏は明治拾九年加住村高月に生まれ若くして村役場に奉職し傍ら郷土の研究に情熱を燃や し特に滝山城趾を世に紹介する事に努め全国観光百選に応募し見事当選する等の業績をあ げている 昭和拾七年には滝山古城跡保勝会を設立し丘陵道休憩所等の諸施設の設置を見たのも氏 の努力に依るものである戦後の荒廃した施設の復旧にあたっては多額の資金を寄付せられ る等今日の滝山観光協会の繁栄の礎としての大きな功績を残したのである 昭和四十八年四月 滝山観光協会々長 門倉憲治 ● 霞神社由来 明治三十七 八年戦役(日露戦争)に 武勲を樹て散華された英霊を 奉斎せん為 明治四十五 年五月一日 当時の在郷軍人會加住村會の首唱によって 史蹟である北條氏照の居城滝山 城址本丸跡を卜し 神社を創建して 霞神社と称した この時に奉斎の英霊は十五柱で 爾後 毎年 盛大な慰霊顕彰の祭典が 奉仕され来った 昭 和の御代となり 満州事変 支那事変及び大東亜戦争に出征し 戦功を挙げて 戦没された弐 百二十九柱の英霊を 更に 合祀して 今日に至った。 今回八王子市合併を機とし 加住地區遺族會が発起して 設立された滝山霞神社銘碑建設協 賛會により ここに碑を建て 霞神社御祭神芳名を録し その勲功を 永久に伝えんとするもの である 昭和三十三年四月 祥日 靖国神社権宮司池田良八 謹撰 書 碑銘 水明雲を碧く多摩川秋川の上流 銀砂を洗い微風うららなる 滝山古城址のほとり 萌えいずる尊のみとりを踏みもゆき 暢和の気四方に満つ わが故山碑 いまぞなりぬ 仰げば人類平和と民族興隆の 聖なる道 ここにあり 一筋の純情と勇気を祖国に捧げし 生命の栄光 燦として輝く 幾山河隔てし いくさの庭に 星しげき曠○の野に 心頭を○○す父母の名と望郷の感 かりそめに思いいずべき うべや 身もついにかしこに 招魂壺百四十四柱 永遠に鎮まりいます われ等ここに来りて碑を仰ぐ 感慨も げにそぞろなるかな 昭和三十三年五月 霞神社銘碑建設協賛会 * 霞神社の右側を進むと、金毘羅社がみえてきます。 ● 金毘羅社 再建之碑 国史跡 滝山城本丸 櫓台に鎮座する金毘羅社は、今を去る二百年余り前天明(1781〜)年代 に滝村持ちで造営されたと武蔵風土記に記載されています。 江戸時代から本丸一帯は、麓の滝村(現八王子高月街滝地区)持ちで年貢の免除地として受け 継がれており(地区の氏神駒形神社境外地)滝の城山ともよばれ広く滝山城の名を後世に伝え ております。 戦国の乱世は去り、当時滝村では広い水田の米、豊富な薪炭、川魚等を産物とし豊かな村とし て栄え、多摩川の漁場は御本丸御用地に指定され、将軍へ鮎の献上を行ったと記録されてい ます。 農閑期には多摩川、秋川が合流する地の利を生かして、江戸の繁栄に伴う需要増から森林材 の中継地として、材木筏を組み物資を乗せて多摩川を下り、江戸への輸送を村ぐるみで生業とし その成果は拝島、熊川へ農地を拡大して栄えてきました。 江戸文化華やかなりし頃、村人たちが水運の安全と事業の繁栄を願って、多摩川を一望できる 当所に海運(開運)の神様として名高い金毘羅様を祀ったのであります。 以来、農業、殖産に、家内安全、無病息災などの願い事を叶えて下さる神様として近郷在住より 多くの信者が参拝し賑わいを見せていたと語り継がれています。 地域の文化、産業の発展に多大な貢献をした先祖の残した貴重な遺産であり八王子市の名所 都立滝山公園内にある「神社」として、文化、経済の発展と無病息災、永遠の平和を祈願し金毘 羅社の氏子、加住地区有志の御奉賛により創建二百年事業として社殿の再建を行いました。 平成六年三月吉日 金毘羅社再建委員会 *(木橋/引き橋の下の道から階段を登ってくることができます) ● (12)案内板「滝集落から本丸への侵入路(搦手口からの侵入路)」 本丸北西側の枡形虎口(出入り口)は滝集落からの侵入路を抑えている。 この侵入路を防御するため、出丸(でまる)と本丸から挟み打ちできるように工夫している。 (二方向から敵を挟んで攻める) 出丸の先端部分には馬出(うまだし)を備え、縦横の堀と共に強力 な防禦態勢を整えていたと思 われる。 (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |