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<< 即宗院入口−→即宗院−→西郷隆盛密議の地 採薪亭跡−→東征戦亡之碑(西郷隆盛自筆) >> ● 即宗院へ ● 仁王像(石造) 仁王は伽藍守護の神で、寺門または須弥壇(中央の仏壇)の両脇に安置された一対の半裸形の金 剛力士です。 普通、口を開けた阿形(あぎょう)と口を閉じた吽形(うぎょう)に作られ、一方を密迹(みっしゃく)金剛、 他方を那羅延金剛と分ける諸説があります。 東福寺は「大本山」であるため、本山の三門(山門)に仁王像があり、各塔頭の山門には仁王像を 安置しないのが本来です。 然るに、塔頭である即宗院だけに安置されており、その由来は不明です。 石造りの仁王像は、本来薩摩(鹿児島)で多く見られる像であることから、薩摩からの伝来であるこ とが分かります。 ● 即宗院 即宗院は南北朝時代 島津氏久の菩提の為東福寺第五十四世住持剛中玄柔和尚を開基として創 建されました。 当庭園は遡ること約八百年前関白藤原忠通が御所の東御堂として建立し、その子兼実(公家九条 家の始祖)に伝えました。 兼実は月輪殿と称し山荘としました。 法然上人(1212没)が来訪され、その行状絵巻に優美な寝殿造の邸宅と池庭が描かれています。 寛政11年(1799年)刊「都林泉 図絵」に掲載され、池や築山があり裏山には自然居士の石 や茶 室「採薪亭」が望まれます。 現在月輪殿の滝跡の石組が残存し、池は「心」の字体を表わし当時を偲ばせます。 山門は慶長18年(約400年前)の遺構で左右に石造の仁王像を配した貴重建造物です。 門外渓流「洗玉澗」にかかる「偃月橋」(えんげつ)は重要文化財であり、下流の臥雲橋通天橋に関 連し天の月「弦月」の意で、また骨相学上「貴人の相」の意でもある。 * (パンフレットより) *********************************** ● 「西郷隆盛自筆 東征戦亡之碑」へ向かいます。 石柱「西国街道」の所を左折すると、右側に井戸があります。 * (西国街道)・・・(左折)・・・(井戸) ● 西郷隆盛密議の地 採薪亭跡 清水寺成就院の僧月照(法名忍向)は勤王として活躍し、和歌のつながりで近衛家に出入して、尊 王志士と交わり西郷と志を一とした。 安政5年(1858年)井伊直弼は尊王攘夷運動に対して大弾圧を行った。 この頃水戸藩への朝廷密使事件があり、西郷は京都で井伊打倒の秘策を進めていた。 この時、僧月照と西郷は当即宗院山中採薪亭にて密議を重ねた。 当時東山三十六峰慧日山山麓は山深く狐狸が遊ぶ地でありました。 その後月照と西郷は京を離れ西進、薩摩(鹿児島)へ逃がれたが、月照は失意の中錦江湾に身を 投じた。 西郷は大島へ流された。 階段を登って行きます。 ● 東征戦亡之碑(西郷隆盛自筆) 建碑のいわれ 鳥羽伏見の戦いに始まり、会津若松の(白虎隊)東征が終って維新の鴻業が成就したことは周 知のことであります。 この難に倒れた島津藩士五百二十四柱の功を永くたたえるため、その総師であった西郷隆盛 が、当即宗院に滞留すること半年、齊戒沐浴して、自ら建碑の工事を監督し筆をとりて銘文を 作り、その亊績を顕彰したものであります。 * (東征戦亡之碑/西郷隆盛自筆) (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |