(画像をクリックすると大きくなります) << 桝形−→北出丸−→遠藤敬止翁頌徳碑−→忠魂碑−→椿坂−→太鼓門−→武徳殿−→弓道場 >> ● 信号(北出丸)の所に標柱(鶴ヶ城入口)があり直進。(普通車直進可) 標識(←鶴ヶ城市営駐車場 300m)に従います。 ● 石碑「史蹟 若松城跡」が大きな石垣の脇に建っています。 * (史蹟 若松城跡) ● 桝形 ここに見られる石垣は今から約370年前の加藤時代に整備された石垣です。 若松城の大手門として堅固な石垣に囲まれ、さらに右に曲がった場所には内部を見透かされない ように門(北出丸大手門)がありました。 この桝形は敵を三方から攻撃できる利点がありました。 * (振り返ると・・中央の建物は「本丸茶屋」です) ● 北出丸 寛永16年(1639年)加藤明成の時、北馬出を出丸に造りかえたもので、本丸を守る重要な出丸であ った。 東は二の丸と伏兵郭(ふくへいくるわ)に、南は本丸に、西は西出丸に濠をへだて相対し、攻防の際 には最も重要な位置にあったため城の生命線であった。 北出丸に侵入した敵は三方からせん滅することができるので「鏖丸/みなごろしまる」ともいわれて いた。 ● 右側に「遠藤敬止翁頌徳碑」がたっています。 遠藤敬止翁(1849~1904年)は旧会津藩士。 会津戊辰戦争では各地に転戦の後鶴ヶ城に籠城した。 明治6(1873)年大蔵省銀行事務講習所の講師となり、「銀行実験論」を出版した。 明治11(1878)年仙台に第七十七国立銀行が設立されるに当たり教授役になり、明治14(1881) 年2代目頭取に就任し、以降逝去するまで通算約23年間頭取を務め東北の経済発展に大きく貢 献した。 明治23(1890)年旧会津藩主松平家が政府より鶴ヶ城跡地86,806坪の払下げを受けた際、遠 藤敬止翁は 「この城跡は戊辰の逆境に幾千の魂を留めた古戦場なので、千古の記念にしなけ ればならない」と私財を出し松平家に献納した。 現在この鶴ヶ城跡地は国の史跡に指定され会津若松市の所有となっている。 昭和45(1970)年この徳を称えて頌徳碑が建立された。 平成15(2003)年6月遠藤敬止翁百年忌法要記念 遠藤敬止顕彰会 ● 忠魂碑 ● 左側は「椿坂」です。 北出丸から本丸へと通じる城への玄関口。 この坂を制するものが城を制すると言われる程、重要な坂でした。 この坂を上った所に、観光案内所(管理事務所)があります。 ● 椿坂を登ると「太鼓門」に。 北出丸から本丸に通じる大手門(追手門)のことで、ここには多聞櫓と呼ばれる櫓が建てられ、直 径五尺八寸(約1.8m)の大太鼓を備え、藩主の登城や非常事態、その他の合図に使用したことか ら太鼓門と呼ばれた。 * (振り返ると) ● 椿坂を戻ると、正面には「武徳殿」・「弓道場」が。 昭和9年武道を愛する市内の篤志家たちの寄付により建てられました。剣道をはじめとする武道 奨励のための道場です。 * (武徳殿) * (弓道場) ● 標識に従い駐車場へ。 (画像をクリックすると大きくなります) ● (入口へ) ● |