(画像をクリックすると大きくなります) << 本丸埋門−→萱野国老殉節碑−→茶壺櫓−→忍者返し−→ −→月見櫓−→横矢がかり−→荒城の月碑−→茶室 麟閣 >> ● 本丸埋門手前を右折(直進・・廊下橋方面) * (本丸埋門手前を右折) ● 萱野国老殉節碑(かやのこくろうじゅんせつひ) 萱野権兵衛長修は国家老として内政の責任を担っていた。 慶応4年(1868)戊辰戦争では先頭に立って激務にあたった。 また敗戦処理に際しては、城明け渡しや藩主父子の助命嘆願に力を尽くした。 その結果、藩主は死を許されたが、戦争責任が、戦争責任は家老田中土佐、神保内蔵助、萱野 権兵衛にあるとされ、田中、神保は既に死亡しており、萱野権兵衛のみがその罪を一身に背負い 切腹した。 この碑は昭和9年、有志の手によって建立された。 ● 本丸の東側石垣にのぼると「茶壺櫓」が。 茶壺櫓 この櫓の下には、茶室麟閣があり、櫓内には主に貴重な茶器類が納められていたためにこの 名がある。 茶壺櫓は廊下橋の側面の守りとしても重要な櫓である。 廊下橋両側の石垣は高さ約20mと城内でも最も高く美しい石積みである。 * (茶壺櫓) ● 忍者返し(扇の勾配) 本丸側の高石垣は、「忍者返し」と呼ばれ、扇の形の勾配で約20メートルの高さがあるそうです。 最も美しい石垣だそうです。 ● 月見櫓 この櫓には常に武器が納められていた。 また櫓にかかる月が一際美しかったことからこのような名で呼ばれた。 役割としては城下南方の物見櫓、また内濠から続く本丸南側の石垣の横矢掛としても重要な櫓だ った。 * (右画像 下に茶室/麟閣がみえます) ● 「横矢がかり」というジグザグになっている部分があります。 これは敵を側面から攻撃するための工夫だそうです。 * (横矢がかり) ● 荒城の月碑 鶴ヶ城本丸の東南隅にあります。 名曲「荒城の月」が鶴ヶ城と青葉城をモチーフに作詞されたことは、昭和21年、土井晩翠氏を招い た音楽祭であきらかに。 翌年、勇志により詩碑建設会が設立され、同年6月5日土井晩翠夫妻を招いた盛大な除幕式が行 われました。 この詩碑には、晩翠氏直筆による荒城の月1番〜4番までの歌詞が記されています。 「荒城の月碑」は、鶴ヶ城、青葉城の他、作曲者滝廉太郎の故郷大分県竹田城址の三ヶ所にあり ます。 ● 茶室 麟閣 (福島県指定重要文化財) 天正19年 茶道の祖・千利休は、豊臣秀吉の怒りに触れ、死を命じられました。 その時の会津領主蒲生氏郷が、利休の茶道が途絶えるのを惜しんで、この子少庵を会津にかくま い、徳川家康とともに千家復興を秀吉に願いでました。 その結果、少庵は京都に帰って千家を再興し、宗左、宗室、宗守の三人の孫によって、表、裏、武 者小路の三千家が興され、今日の茶道の基礎が築かれました。 この少庵が会津にかくまわれている間、蒲生氏郷の為に造ったと伝えられています。 江戸時代の初期から中期にかけて、現在の様式に改められたと考えられる茶室です。 戊辰戦争の後、城下へ移築されていましたが、平成2年に建造当初の地に移築・復元されました。 茶室麟閣は改修工事(2014年4月1日〜11月末日まで休園)の為、見学出来ませんでした。 * (麟閣/正門)・・・(裏千家15代家元・鵬雲斎千宗室氏による扁額) * (麟閣/脇門)・・・(武者小路千家14代家元・不徹斎千宗守氏による扁額) * (右画像/麟閣前の井戸) (画像をクリックすると大きくなります) ● (入口へ) ● |