(画像をクリックすると、大きくなります) << 藩主の居間跡・表御座跡−→鶴ヶ城天守閣入口−→塩蔵−→一層(撮影禁止)−→二層 >> ● 藩主の居間跡・表御座跡 * (藩主の居間跡)・・・(表御座跡) * (本丸) (全景はパノラマでご覧ください) ● 鶴ヶ城天守閣入口 ● 天守閣の石垣 天守閣の土台となっている石垣を「天守台」といいます。 若松城の天守台は約400年前の、蒲生氏郷(がもううじさと)が天守閣を建てたときに築かれたもの です。 ただし内側の石積みは慶長16年(1611)の大地震の時の被害により加藤時代に行われた改修の 時に積み直されたものです。 天守台の内部は年間を通して外部より気温が、むかしは塩や保存食などの貯蔵庫として利用され ていました。 現在の天守閣は鉄筋コンクリート造ですが、昔のままの天守台に負担がかからないように地中深 く埋められた柱だけで支えられています ● 塩蔵の情景 若松城の天守台内部には、「塩蔵」が設けられていました。 海を持たない会津にとって塩は貴重品であり、越後(新潟県)方面から舟で輸送された塩は、籠城 時の備えとして蓄えられていました。 戊辰戦争時、城中城下に貯蔵された塩は約36000俵に達したとされ、その一部にこの塩蔵の塩も 含まれていました。 現在ここでは、戦争に備え塩の備蓄状況を見回りする蔵役人と積み上げられた塩叺の情景を再 現しています。 ● 一層(撮影禁止) 資料から知る歴代藩主とお城の変遷 実物展示 実物資料をきっかけに歴代の「領主」と「城」の変遷を紹介します。 また若松城とその整備計画を親しみやすく解説しています。 お城ギャラリーでは随時関連資料の展示を行います。 ● 階段を上り「二層」へ ● 二層 楽しみながら学ぶ江戸時代の会津 季節ごとの城下の風物詩を紹介しています。 会津の金工(正阿弥/しょうあみ) 会津の金工師は、蒲生氏と加藤氏の移封に伴って、京・伊予正阿弥の装剣金工師たちが定住して 以来全国でも「会津正阿弥」と称されるほど著名になりました。 特に馬場町や博労町(ばくろうまち)には正阿や細工店が並び、漆器などに地場産業として、鐔など の装剣小道具の金工品が領内外に販売されました。 明治の廃刀令以後は、岩手・山形・新潟へ煙管や矢立の技術が伝わりました。 商家の用具 商いのための用具として、算盤・大福帳・筆記の硯と筆・物差し・秤・風呂敷などは必需品でした。 物差しの製造販売は自由ですが、容積を量る枡は藩の普請方が割場で規格品を造り、重さを量る秤 は江戸の秤屋守随(はかりやしゅずい)が制作した物を使いました。 会津もめん 会津木綿は、天正年間(1573〜1592)に産業振興のために綿花の栽培を奨励し、木綿を織ったの が始まりとされています。 藍染して普段着などに用いられてきましたが、縞柄に改良を加え、現在では民芸織物としてテーブ ルクロス・財布・袋物などに使用されています。 起き上がり小法師(別名を起姫とも言う) 赤ベコ・会津だるまとともに信仰的な玩具です。 昔から会津地方に伝われ、正月十日市で売られています。 単純な形の中につたなくも素朴な味わいを持っています。 家族や財産が増えることを願って毎年家族の数より一つ多く買う習慣があり、神棚に祀って家の 無事と安全を祈ります。 初音 竹製の小さな笛で、輪切りの竹に吹き口がついているだけの簡単なものです。 元旦に早朝に初鶯の声を聞くと、その年は良いことがあるという縁起物の郷土玩具です。 赤ベコ 会津の代表的な郷土玩具です。 ベコは方言で牛の意で、赤く長い首をユラユラと振る愛らしさが人気の振り子人形です。 赤色は病気を退散あせるという民間信仰に基づいています。 木型に和紙を張って彩色し、絵付けがされています。 会津天神 蒲生氏の頃、下級武士に生計の道を与えるため京都から職人を招き、技術を習得させました。 昔は頭部が練り物でしたが、今は全体が張り子になっています。 菅原道真を祀った学問の神様として古くから崇拝されてきました。 お面 赤ベコと同じく張り子で造られ、その種類はおかめ・ひょっとこ・般若など芝居の題材が多く取り上 げらえています。 作り方は、(1)木型を造る (2)和紙を数枚張り重ねる (3)型抜き (4)胡粉と膠の塗料をお面に塗り、 乾燥して硬さを持たせる (5)顔料で顔を描く、という流れをたどります。 ● 田中玄宰(たなかはるなか 1748−1808年) 1 田中玄宰は、会津藩の家老でした。 2 家老は、領主に仕える地位の高い武士でした。 3 江戸時代なかばの会津藩には、たくさんの借金がありました。 4 田中玄宰は、会津藩を立て直すことに意欲を燃やしました。 5 田中玄宰は、改革によって会津藩の農村を豊かにしました。 6 田中玄宰は、改革によって会津藩の産業を盛んにしました。 7 田中玄宰は、会津藩に藩校「日新館」を作りました。 8 日新館では、日常生活に役立つ実学を教えました。 9 田中玄宰は、亡くなる前に遺言を残しました。 10 田中玄宰の遺言は、自分の墓を城と日新館の見える所につくることでした。 11 田中玄宰の墓は、小田山にあります。 12 小田山は、鶴ヶ城の東にある小高い丘です。 13 田中玄宰は、小田山から今も鶴ヶ城を見守っています。 ● 会津を支えた産業 ● 会津の漆器 ● 会津の酒 ● 刃物・鋸・農具鍛冶 農具鍛冶屋は、農家で使う道具の注文に応じました。 刃物鍛冶は、大工刃物の鉋・ノミ・切出しの刃物を造り、鋸は享保年間(1716〜1735)に大阪の天 王寺鋸の技法が伝わって生産量が増え、北海道開拓に大活躍しました。 また鉄棒も挽き切る中屋助左衛門の鋸と幕末に天下一と称された若林重房のノミは、江戸の大 工達から今も語り継がれています。 ● 本郷焼 正保2年(1645)、水野源左衛門が会津藩に招かれ瓦づくりが命じられました。 その後、弟の長兵衛が「赤瓦」、二代瀬戸右衛門が「巴茶碗」を創製しました。 そして陶工佐藤伊兵衛が伊万里焼を視察研究し、佐賀藩の企業秘密であった磁器焼成の秘法を 持ち帰ってできたのが半製品の「砕石手」で、さらに手代木幸右衛門が改良を加え、磁器化を完 成させました。 藩は各地に直営窯を造り、販売を行いました。 後年国際的にも高い評価を受け、現在18窯元が製陶を続けています。 (画像をクリックすると大きくなります) ● (入口へ) ● |