![]() ![]() ![]() (画像をクリックすると大きくなります) << 南走長屋 干飯櫓 >> ● 階段を下り、走長屋(鶴ヶ城ギャアラリ−・ショップ)へ 会津の妙技や妙味と出会える空間。 ギャラリ−では会津漆器や焼物など伝統産業品を紹介しています。 ショップでは地酒・名菓・特産物・民芸品・鶴ヶ城オリジナルグッズなどの品々を揃えています。 ![]() ![]() ![]() ● 売店を過ぎると緑の幕があり、その前に立つと・・・ ![]() ![]() *(四斤山砲/よんきんさんぽう)・・・(20ドイム臼砲/きゅうほう) ![]() ![]() ![]() ● 衣装 山本八重役、綾瀬はるかさんの衣装 鶴ヶ城籠城シーンでの衣装(弟三郎の遺品の軍服) 松平容保役、綾野剛さんの衣装 白地花織地に青竹色有職紋染直垂に蘇芳色染四菱織地に金刺繍葵紋陣羽織 ![]() ![]() ![]() ● 八重の生家の模型 ![]() ![]() ![]() ![]() ● 遠くから大きな声が聞こえていました。 すると、パフォーマンス紙芝居(新島八重物語)をしていました。 ![]() ![]() ![]() ● 南走長屋 干飯櫓 展示されている内容は、建物の機能や使われ方をイメージしたものです。 ここは南走長屋 南走長屋は鉄門と干飯櫓を結ぶ走長屋で発掘調査では矢の先に付けた鏃が出土したことから武 器庫であったと考えられています。 部屋割りは、発掘調査をもとに再現されています。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 発掘前の南走長屋石垣 復元は、外観や内部も往時のままに、おなじ材料や工法を用いて建築することが基本となりますが 残念ながら若松城では、詳細な図面は一枚も無く、資料に乏しい状況です。 このため発掘調査を行い、正確な基礎の構造や特徴、さらに出土品から当時何に使われていた建 物なのかを調べます。 * (雑草が茂り荒涼とした状態になっていました) ![]() ![]() 発掘中の南走長屋石垣 発掘は、当時の遺構や基礎を崩さないよう慎重に行われます。 また、出土品は、その出土した位置や、特徴などを克明に記録しておきます。 今回の発掘調査は平成8年9月から12月末までの4ヶ月間行われ、やじりや当時使われていた屋 根瓦なども発掘され、復元にあたっての貴重な資料となりました。 ![]() ![]() (発掘作業は、ほとんど手作業です。遺構や出土品を損なわないように注意して少しずつ掘っていきます) 発掘終了後の南走長屋石垣(木が植えられて遺構の失われた部分があるのがわかります) 発掘終了後の干飯櫓石垣(遺構の様子がはっきりとわかります) 発掘でわかったことは、礎石と呼ばれる柱を立てた石には基礎の材木を置いたところを削るという 特徴が見られ、これにより本来の建物の大きさや柱や壁などの基礎材が入れられた位置を確認 できました。 また干飯櫓では、建物中央に2本の柱が立っていたこと、南走長屋では小部屋が3つ並んでいた ことなどが確認できました。 ![]() ![]() ![]() 石垣積替前 今回の復元工事に伴い、干飯櫓・南走長屋の土台となる石垣を補修しています。 これは膨らみだしている部分の積み直しや、風化などにより破損している石の交換をする工事で、 復元にあたって土台をしっかりとし、崩れないようにするためのものです。 石垣積替中 積替に使った石材は、市内の石山地区から切り出しており、通称「慶山石」と呼ばれています。 この石は、城内の石垣の大部分に使われており、加藤氏時代の大改修にも用いられたとされてい ます。 既存の石と区別できるように、交換した石には「平成9年度取替」と裏に墨書きをしています。 石垣積替後 石垣上端から下端までの微妙な曲面をなす壁画や曲面にするための一つひとつの加工、積み方 など、往時の技術の高さが伺えます。 天守台の積み方は「野面積み」という自然石をそのまま積む方法ですが、干飯櫓・南走長屋の石 垣は「布積み崩し」という積み方で石を加工することにより石との隙間を小さくしてより強固に積ま れています ![]() ![]() ![]() 石垣の種類 石垣の様式は、石材の性質、石材の加工、構築方式、詰石の有無、勾配、石垣の表面の加工な どにより決められます。 ここで紹介するのは、積み石の加工程度によって分類したもので、若松城でみられるものです。 野面積み 自然石の形をそのまま利用して積む方法です。 若松城では、天守台がこの積み方で、約400年前、蒲生氏郷の時代に築かれています。 打ち込みハギ 槌で石の角を叩いて、石の角を平らかにして互いに組み合わせたもので、石と石の間に栗 石(径20cm内外の小石玉の総称)を詰め込んであります。 加藤氏時代の大改修で、太鼓門などに、用いられています。 切り込みハギ 藁をもって石を磨いて互いに組み合わせたもので、石を四辺形に加工し隙間をなるべく少な くしています。 鉄門の石垣にみられます。 石垣の構造 石垣の内部の構造をみると、石材のすぐ裏に盛り土があるわけでなく割栗、土砂と層状になってい ます。これは、一つには石垣と一体となって石垣にかっかる圧力を分散させる機能があり、さらには 排水性を高め、石垣の勾配の曲線は、上にのる建物の重さをうまく支える構造でもあります。 ![]() ![]() 再現!!池田屋騒動 会津藩預かりという立場で幕末の京都の警備にあたっていた新撰組は、元治元年(1864)6月5日倒 幕派志士の会合が開かれるという情報を入手し、その可能性が高いと思われた四国屋と池田屋へ、 隊を二分して急行しました。 実際には局長の近藤勇や一番組長沖田総司などが向かった池田屋がその会場ととなっており二階 の奥の間に三十名以上が集結していました。 近藤たちはわずか十名という数的な不利にもかかわらず副長の土方歳三が率いる四国屋へ向かっ た部隊、さらには会津藩などの援軍の到着を待たずに突入し、ほどなく合流した土方隊とともに、倒 幕派志士たちを次々と倒し、捕らえました。 長州藩の桂小五郎はこの席におらず、危うく難を逃れましたが、肥後の宮部 蔵らが死亡し、「明治 維新が数年遅れた」と言わしめました。 このときの働きが、新撰組の名を京都内外へとどろかせることとなりましたが、一方で倒幕派の大き な恨みも買うこととなりました。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 赤瓦 干飯櫓・南走長屋の屋根瓦には釉薬をかけて焼いた赤瓦を葺いています。 若松城では、築城当初は黒瓦が葺かれていましたが、寒さで凍み割れてしまうため、徐々に赤瓦に なきかえられていきました。 発掘調査により出土した瓦も赤瓦がほとんどで、この成分を分析し、これに近い瓦を今回の復元に 使用しました。 ![]() ![]() 石おとし ![]() ![]() ![]() 二階は閉鎖されています。 ![]() ![]() (画像をクリックすると大きくなります) ● (入口へ) ● |