(1)第一鳥居→大村益次郎銅

               


     (41)高燈籠    (34)社号標    (33)第一鳥居(大鳥居)    (35)常陸丸殉難記念碑

                  (36)慰霊の泉                  (32)大村益次郎銅像


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  ● (41)高燈籠
          明治4年(1871)竣工の高燈籠(常燈明台)は、品川沖の船舶には航海の目印となっていました。
          大正14年(1925)、九段坂の改修工事に伴い、道路向いから現在の位置に移転されま した。

                      



  ● 第一鳥居(大鳥居)へ向かいます。

                  



  ● (34)社号標 狛犬 

                     



  ● (33)第一鳥居(大鳥居)
          大正10年(1921)、日本一の大鳥居として誕生した第一鳥居は、「空をつくよな大鳥居」と歌われ
          て親しまれていましたが、長年の風雨で損傷がはげしくなり、昭和18年(1943)に撤去されました
          現在の第一鳥居は戦友たちの奉納により昭和49年(1974)に再建されたもので、高さは25mです

                     



  ● さざれ石

                          



  ● (35)常陸丸殉難記念碑
          明治37年(1904)日露戦争が勃発し、同年6月14日、後備近衛歩兵第一聯隊長須知中佐は、そ
          の第二大隊と第十師団糧食縦列と共に、常陸丸に乗船して宇品を出航し、勇躍征途に就いた。
          翌15日午前10時頃、沖ノ島附近に達すると、折からの雲霧の切れ間より突如として三隻の敵艦
          が現われ、猛砲撃を加えてきた。
          もともと海戦の装備を持たない輸送船のこととて、全く応戦の術なく、忽ちにして船上は修羅の巷
          と化し、搭乗の山村海軍中佐をはじめ、船長、航海士も相継いで斃れた。
          野戦攻城にかけては鬼神をも取り拉ぐべき益良雄も、海上では如何とも為し難く、今はこれまで
          と覚悟した聯隊長は、皇城を遥拝し、軍旗奉焼した後従容として自決し、大隊長山縣少佐以下一
          千有余名の勇士も、無念の涙を飲んで玄界灘の波間に没した。
          武備なき輸送船常陸丸の悲劇は、その後数々の詩歌に歌われて広く人口に膾炙し、人々はその
          悲運の最期を悼んだ。
                昭和61年6月15日  
                   殉難82周年慰霊祭にあたり誌す    常陸丸遺族会  全国近歩一会
             碑の裏面には、荒木貞夫陸軍大将の撰文揮毫による碑文が刻んである。

                      



  ● 田中支隊忠魂碑
         第一次世界大戦は、4年余にわたって戦われたが、特にロシアに与えた影響は甚大で、大正6年
         (1917)3月革命が起り、翌年3月にはドイツと単独講和を締結してロシア軍は殆ど解体状態となった
         当時オーストラリア・ハンガリー軍のチェコ・スロバキア人兵士の中からロシア軍に投降し、連合国
         側に協力していた約5万のチェコ・スロバキア軍団は、ウラジオストクから欧州の連合国側戦線に増
         援のため同地に移動していたが、各地でロシア過激派(革命派)等の抵抗を受けていたので、日本
         アメリカ、イギリス、フランス等の各国はチェコ・スロバキア軍救援の名目でシベリアに軍を派遣する
         ことを決した。
         日本から第十二師団が派遣されることとなり、大正7年(1918)8月、ウラジオストクに上陸し、9月初
         めにはハバロフスクに進軍した。
         田中支援が属する歩兵第七十二聯隊は、更に西進してアムール州(現在の中国黒龍江省北方)方
         面の過激派討伐に任じたが、広域のため小部隊を僻地に分散配置し苦戦を強いられていた。
         第三大隊長田中勝輔少佐は砲兵等の配属を受けて田中支隊を編成し、大正8年(1919)2月25日、
         敵の退路を遮断する任務を受け、ユフタ(ブラゴベシチェンスク北方)付近に達するや、敵の大集団が
         北方に退却しつつあるのを知り、香田驍男歩兵少尉の指揮する小(44名)を偵察のため先遣したが、
         約20倍の敵の攻撃を受け負傷者3名の外全員戦死した。
         支援主力(150名)は香田小隊を赴援中、26日朝香田小隊を覆滅した敵と遭遇したが衆寡懸絶して
         包囲され、敵に多大な損害を与えたが支隊長は敵弾を受けて自刃し、全員壮烈な戦死を遂げた。
         更に、配属の砲兵中隊及び歩兵一小隊は西川達次郎砲兵大尉が指揮し、ユフタにおいて待命中
         主力方面に銃声を聞き救援に赴いたが優勢な敵と衝突し、負傷して戦場を退いた5名の外107名
         悉く火砲と運命を共にした。
         この忠魂碑は、重傷を負い生還された山崎千代五郎氏等が戦友の悲壮な最期を想起し、その神
         霊を慰めるため昭和9年(1997)2月26日、九段坂下に建立されたものを平成8年(1996)9月3日現
         在地に移設したものである。
         本碑台座部分には、大正8年(1919)2月27日、第十二師団長大井成元陸軍大将から同支隊に授
         与された感状(昭和43年(1968)2月27日再建復刻)が刻まれている。
             平成8年(1996)9月3日 歩兵第七十二聯隊戦友会    靖國神社

                      



  ● (36)慰霊の泉 −戦没者に水を捧げる母の像−
          戦没者の多くは 故国の母を想い 清い水を求めながら 息を引き取りました
          この彫刻は 清らかな水を捧げる慈愛に溢れる母を 抽象的に表現したものです
          また この母の像の外壁は 日本古来の宮や社にある固有の 簡素なたたずまいを表します
          そして背後には 第二次世界大戦激戦地の戦跡の石を収集して 展示しております
             建設 昭和42年4月18日   改修 平成26年6月10日
                奉納 一般社団法人東京キワニスクラブ
                  キワニスクラブは 恵まれない人々 特に子供達を支援する民間の奉仕団体です
                      1915年米国ミシガン州デトロイト市で創建され 東京キワニスクラブは
                      1964年アジア太平洋地域で 最初のクラブとして誕生しました

                  



  ● 参道をすすみます。

                  



  ● (32)大村益次郎銅像
          近代日本陸軍の創設者で國神社の創建に尽力した大村益次郎の銅像は、明治26年(1893)、
          日本最初の西洋式銅像として建てられました。

                      




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                                 ● (入口へ) ●


  

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