(画像をクリックすると、大きくなります) |
<< 本堂−→(19)石灯籠−→(20)大香炉−→仏舎利殿−→(21)句碑−→書院−→寺務所−→ −→(23)落慶記念碑−→宝篋印塔−→大正天皇御生母 柳原一位局之墓−→祐天上人墓 >> ● 本堂 創建時の本堂は明治27年(1894)の火災により焼失したため、明治31年(1898)に現在の本堂が再 建されました。 江戸時代末期に建てられた徳川家の位牌を祀(まつ)る御霊殿(ごれいでん)を曳(ひ)き移して本堂の 一部としました。 堂内に華麗な破風(はふ)があるという珍しい建築構造となっており、国の登録有形文化財(建築物) に登録されました。 内々陣(ないないじん)には祐天上人坐像(東京都指定文化財)を中心に、右脇間に祐天寺を起立(き りゅう)した2世祐海(ゆうかい)上人坐像(目黒区指定有形文化財)、左脇間に中興の6世祐全(ゆうぜ ん)上人坐像が祀られています。 木造祐海上人坐像 区指定文化財(昭和53年3月22日指定) 中目黒5-24-53 この像は祐天寺2世56歳の姿を写した寿像です。 元文2年(1737)に弟子たちが発願し、大仏師法橋石見(ほっきょういわみ)により製作されました 本堂に安置され、像高48.3cm。寄木造、彩色、一部金泥塗り、玉眼、円頂、頭部は襟際で挿首 (さしくび)。法衣に環付(かんつき)の袈裟をかけ、合掌、趺坐(ふざ)の姿をしています。 祐海自著の銘文が墨書され、文化5年(1808)に胎内に祐海の遺言とともに納められました。 江戸時代中期の紀年を有する入念な肖像彫刻として貴重であり、内刳(うちぐり)の内部に箔押 を施しているのは本尊祐天上人坐像にならったもので、大変珍しい遺例です。 (19)石灯籠 明和3年(1766)4月15日、永代千部講と永代百萬遍講の15日切回向が始まり、常夜灯が一対 寄進されました。 石灯籠にはそれぞれ「下町浅草連中」「山手麹町連中」と刻まれ、浅草や麹町近辺の念仏講 であることが分かります。 (20)大香炉 昭和24年(1949)に加賀屋石材工業の加賀寅之助氏によって奉納されました。 (正面右側) (正面左側) ● 仏舎利殿 平成29年(2017)に建立されました。お釈迦(しゃか)様の舎利(しゃり)(遺骨)が納められています。 1階は宝物展示室となっており、宝物展(不定期)を開催しています。 正面の大絵馬(おおえま)は、累(かさね)伝説を題材として昭和61年(1986)に月岡栄貴(つきおかえい き)画伯らによって描かれました。 (21)句碑 平成6年(1994)、俳句結社「春燈」が2代目主宰の安住敦氏の7回忌に建立した碑です。 「てんとむし 一兵われの 死なざりし」という安住氏の句が刻まれています。 ● 書院 居間兼書斎として使われる建物のことで、祐天寺では主に法事の控え室として利用されています。 現在の書院は明治28年(1895)に再建されました。 ● 寺務所 受付時間は午前9時から午後5時まで。 法要やご祈願の申し込み、ご朱印の受付、お線香やお守り、おみくじの頒布もしています。 (23)落慶記念碑 祐光殿・寺務棟・幼稚園の落慶を記念して、平成16年(2004)に祐天寺総代の島崎忠範・鏑木 敏嗣・加賀節壽氏によって建立されました。 正面の銅ポレートは祐天寺22世本多正雄上人が作詩した「祐天寺和讃」です。 祐天寺和讃 作詩 本多正雄 作曲 中村裕美子 江戸の名残りの 仁王門 くぐれば花が 散りて舞う 如来の教え 明顕し 福田ここに ひらかれて 念仏の声は 響きあう 将軍ゆかりの 時の鐘 法音つねに 尽未来 累や衆生を 済度せる その名はつとに ひろがりて 目黒を照らす 法の月 祐天のみ名 寺号とし 鐶一の紋 輝ける 善男善女は 和合して 無辺の光り いただいて 愚心にはげむ 日々新た 南無阿弥陀仏 阿弥陀仏 ● 宝篋印塔(ほうきょういんとう) 『宝篋印陀羅尼(だらに)経』を納める塔のことです。 この塔に一香一華を供えて礼拝すればあらゆる罪障(ざいしょう)が消滅し、この世では厄難(やくなん) から逃れて長寿を得ることができ、死後は必ず極楽に生まれ変わると信仰されました。 ● 大正天皇御生母 柳原一位局之墓 ● 祐天上人墓 所在地 目黒区中目黒5-23-17 祐天寺墓地内 仮指定 大正14年6月6日 指 定 昭和30年3月28日 祐天上人は江戸時代中期に活躍した浄土宗の高僧です。 陸奥国岩城郡(福島県)四倉村に生まれ、伯父の芝増上寺内池徳院休波を訪ねて江戸に上がります。 その後檀通を師として修学し、諸国修行の旅に出ました。 牛島で念仏生活を続けていたところ桂昌院の帰依を得て、将軍綱吉との関係も深まります。 元禄12年(1699)に下総国生実大厳寺の住持となり、宝永元年(1704)には伝通院住持となりました。 たびたび江戸城に召され、とりわけ大奥の人々が深く帰依しました。 正徳元年(1711)将軍家宣より芝増上寺住持を命じられ、36世となり大僧正に任ぜられました。 多数の寺院の復興などを行い、多くの人々の帰依を得ました。 正徳4年(1714)隠居し、享保3年(1718)入寂しました。 祐天寺は、祐天上人の遺言により高弟祐海が念仏道場を建立したことに始まります。 祐天を開山とし、祐海は二世となりました。 墓はいわゆる無縫塔で、倒卵部分の高さは90センチメートルを計ります。 六角板状の基部があり「当寺開山 祐天大僧正」などと記されています。 平成24年3月 建設 東京都教育委員会 (全景は、パノラマでご覧ください) (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |