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<<弔魂碑/戊辰戦争−→感仙殿−→善応殿−→無縫塔/擬殉者の墓>> ● 弔魂碑 戊辰戦争 弔魂碑は、慶応4年/明治元年(1868)の戊辰戦争、明治2年(1868)の戊辰戦争における仙台藩士 及び旧幕臣・米沢藩の仙台応援隊士らを含む殉難者1,260名及び民間で犠牲となった多くの方の 霊を弔うために、伊達家(14代当主伊達宗基)と旧仙台藩士が出資し、明治10年(1877)に鋳鉄製 で建立されました。 弔魂碑正面の台座には、「この戊辰戦争で仙台藩のために戦死した一千人余の当地士民の霊魂 を慰める為に伊達宗基旧藩知事により正宗公の御廟のそばに本碑を建てた」と記載されています ● 戊辰戦争と仙台藩 慶応4年(1868)1月、京都郊外の鳥羽・伏見で始まった旧幕府軍と新政府軍との戦いで、鳥羽・伏 見戦争から上野戦争、そして北越戦争・東北戦争、さらに翌明治2年5月に終る函館戦争までの約 1年4ヶ月に及ぶ一連の戦争の総称です。 仙台藩は、奥羽及び北越諸藩の計30余藩による「奥羽越列藩同盟」の結成の中心的な役割を果 たし、旧幕府軍側として戦いました。 ● 経ヶ峯散策路 歴史公園経ヶ峯公園 伊達家墓所の周囲は植栽されたスギ林となっており、一体となって霊域を形づくっています。 樹齢300年以上とみられる老杉も多く、建築物や墓地を風雪から守る役目も果たしていたのです。 その人工的なスギ林に自然的要素が加わり、経ヶ峯一帯にはさまざまな植物群落をみることがで きます。 特に仙台地方が温暖帯と冷温帯の移行帯であることを示す植生のあり方もみられ、市街地に隣接 する貴重な自然環境となっています。 * (経ヶ峯散策路) * (右画像/感仙殿・善応殿へ) ● 感仙殿 伊達忠宗公は慶長4年(1599)政宗公とその正室愛姫(めごひめ)の第二子として生まれ、寛永13年 (1636)政宗公の死去により38歳で二代藩主となった。 仙台城二ノ丸や東照宮の造営、新田開発、諸制度の整備改革など藩政の基盤確立に努め、万治 元年(1658)仙台城内において60歳で没し、この地に葬られた。 三代藩主伊達綱宗公の命により原田甲斐宗輔らを総奉行として霊屋感仙殿の造営に着手、没後 約6年をかけて寛文4年(1664)完成をみた。 感仙殿は瑞鳳殿の形式を踏襲した秀作で国宝に指定されていたが、昭和20年(1945)の戦災で焼 失し礎石等を残すのみとなった。 昭和60年(1985)再建。 * (感仙殿) 忠宗公墓室 昭和56年(1981)秋、霊屋再建に先立つて学術調査が行われた。 二代藩主忠宗公の遺骸と副葬品は、写真のような石積みで囲い玉石を敷きつめた深さ165 cmの石室に納められ、中世の供養碑と考えられる。 板碑数枚が蓋石として利用されていた。 ● 善応殿 三代藩主伊達綱宗公霊屋 伊達綱宗公は忠宗公の第6子として寛永17年(1640)に生まれ、万治元年(1658)忠宗公の死去に より19歳で三代藩主となった。 しかしゆえあってわずか2年で隠居を命じられ、江戸の品川下屋敷で余生をおくった。 隠居後は和歌、書画、能や茶道などの芸術分野で才能を発揮し、数々の秀作をのこした。 正徳元年(1711)71歳で没し、霊屋善応殿が5年後に完成。 瑞鳳殿や感仙殿より装飾的には簡素ながらも規模・形式とも同様のすぐれた建築だったが、感仙 殿とともに戦災で焼失し昭和60年(1985)に再建された。 綱宗公墓室 三代藩主綱宗公の墓室は忠宗公の場合と異なっている。 石積みで囲んだ石室の内側に板材を組んで木室をつくり、その間に石灰を詰めた二重構造 の墓室で、遺骸と副葬品は常滑焼の甕棺に納められていた。 ● 無縫塔 擬殉者の墓 伊達綱宗の没した正徳元年(1711)は殉死禁令から48年を経過していたが、14名の家臣が藩主の 許しを得て剃髪し百ヶ日間亡君の菩提を弔った。 これは殉死に代わる習俗で擬殉と称するが、この時、近習頭であった熊谷斎直清のみは出家し渓 叟と号した。 直清は享保18年(1733)71歳で没し、遺骸は善応殿前方南側に埋葬された。 (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |