(画像をクリックすると大きくなります) |
<< 天守閣 5階(2) >> (( 摩利支天と小田原城−→諸山十尊 )) ● 摩利支天(まりしてん)と小田原城 小田原城天守最上階には、武士の守り本尊として信仰された摩利支天像が安置されていました 大久保忠朝が貞享3年(1686)に佐倉藩(佐倉市)から小田原藩に復帰した際に、天守に祀ったと されています。 「御天守摩利支天」と呼ばれ、元禄16年(1703)の地震において焼失をまぬがれたことから、更に 尊崇を集めました。 摩利支天像は、明治3年(1871)に天守が取り壊された際に、永久寺(現小田原市城山)に移され ましたが、昭和35年(1960)に天守閣が復興された際に返還されました。 小田原城天守模型の調査 小田原市から委託を受けた小田原城天守模型等調査団(団長・西和夫神奈川大学名誉教授)は 3基の小田原城天守模型と絵図等の関連資料の調査を行いました。 その結果、天守最上階に、摩利支天を含む天守七尊が安置されていた空間の詳細が明らかにな りました。 そこで天守閣耐震改修に際して、この摩利支天像が安置されていた空間を再現することとなりま した。 市民による摩利支天安置空間再現 摩利支天安置空間の再現にあたっては、かつての小田原藩有林などを中心とした小田原産材が 用いられ、その多くは市民の寄付によりまかなわれました。 切り出しや運搬、加工にも多くの市民が協力し、古建築についての知識と経験を活かした棟梁を 中心に、小田原の職人が施工しました。 小田原の木に関わる多くの人の力が結集し平成28年(2016)、明治3年(1870)の廃城以来146年 を経て、かつての小田原城天守最上階の姿がよみがえりました。 ● 諸山十尊(しょさんじゅっそん) 天守閣最上階から見えるのが箱根連山です。 これらの中で、天守背後に位置する駒ヶ岳、明神ヶ岳、二子山、石垣山など10の山頂は、諸山十 尊として天守七尊とともに信仰されていました。 (( 西側 )) 聖ヶ岳・・白銀山・・(石垣山一夜城)・・下二子山・・上二子山・・(富士山陣場)・・ ・・駒ヶ岳・神山・・冠ヶ岳・・明神ヶ岳・・(八幡山古郭)・・(東曲輪) (( 北側 )) (八幡山古郭)・・御正体山・・菰釣山・・檜洞丸・・ ・・蛭ヶ岳・・・塔ノ岳・三ノ塔・・大山・・大磯丘陵 (( 東側 )) 大磯丘陵・・江ノ島・・(小田原城下)・・三浦半島・・(常盤木門)・・相模湾 (( 南側 )) 相模湾・・伊豆大島・・真鶴半島・・伊豆半島 (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |