(1)石鳥居→包丁式奉納殿 |
(2)御神水→社務所/授与所 |
(3)拝殿→庖丁奉納殿 |
● 高家神社 主祭神 磐鹿六雁命/いわかむつかりのみこと(尊称・高倍神/たかべのかみ) 天照大神・稲荷大神を併せ祀る 由緒 「日本書紀」の第12代景行天皇53年冬10月の条に祭神・磐鹿六雁命について記されていますが、 延暦8年(798)に磐鹿六雁命の子孫である高橋氏が朝廷に奉ったとされる「高橋氏文/うじぶみ」に さらに詳細に記述されています。 景行天皇が皇子日本武尊(やまとたける)の東国平定の事績を偲び、安房の浮島の宮に行幸さ れた折、侍臣の磐鹿六雁命が、弓の弦をとり海に入れた所堅魚(かつお)を釣りあげ、また砂浜を 歩いている時、足に触れたものを採ると白蛤(しろうむぎ=はまぐり)がとれました。磐鹿六雁命は この堅魚と白蛤を膾(なます)にして差し上げたところ、天皇は大いに賞味され、その料理の技を厚 く賞せられ、膳大伴部(かしわでのおおともべ)を賜りました。 この功により若狭の国、安房の国の長と定められ、以後代々子孫は膳(かしわで)の職を継ぎ、も し世継ぎのないときは、天皇の皇子を継がせ、他の氏を交えず、皇室の食事を司るよう賜りました また、大いなる瓶(かめ=べ)に例え、高倍さまとして宮中醤院(ひしおつかさ)で醤油醸造・調味 料の神として祀られています。醤には、野菜を発酵させた草醤(くさびしお)、穀物を発酵させた穀醤 (こくびしお)、魚などを発酵させた肉醤(にくびしお)があった。今でいう漬物・味噌醤油・塩辛の三種 だが、これらは日本料理の基礎をなすものであり、磐鹿六雁命が料理の祖神とされる由縁です。 高家神社は延喜式神名帳に登載される小社の一つです。現在の所に祀られたのは江戸時代の 初頭にさかのぼります。 元和6年(1620)、現在の宮司の祖先となる高木吉右衛門が桜の木の下から、木像と二面の御神 鏡を発見し、社を建てて祀りました。 200年余りの後、この鏡面に御食津神(みけつかみ)、磐鹿六雁命と記されていたことがわかり当 時所在があきらかではなかった高家神社の御神体であるとして、文政2年(1819)に京都吉田御所 に証を願い、御幣帛(ごへいはく)をいただきました。神社拝殿内正面の御神号額はこの時のもので 神祇道管領卜部朝臣良長(うらべあそんよしなが)の銘が刻まれています。 江戸時代以降、醤油沿革史の著者・田中直太朗(金銚子)氏、料理法大全の石井治兵衞氏、さ らには日本料理研究会初代理事長・三宅孤軒氏等の労により、祭神の御神徳が発揚され今日に 到っています。 * (左/石鳥居)・・(右/参道) * (拝殿) * (包丁式奉納殿) * (左/社務所)・・(中/手水舎)・・(右/御神水) * (左/包丁奉納殿)・・(中2/包丁塚)・・(右/供養碑) * (左/神輿殿)・・(右/忠魂塔) ● 案内コース (1) 参道−→石鳥居−→包丁式奉納殿 (2) 国旗掲揚塔ー→手水舎−→御神水−→社務所/授与所−→ →左碑・・割烹教育者連盟理事長/安東縣→右碑・・日本料理研究会初代理事長」/三宅孤軒 (3) 拝殿−→庖丁塚−→庖丁奉納殿−→神輿殿−→ −→本殿竣工記念碑−→供養碑−→忠魂塔 ************************************** ● アクセス * JR内房線千倉駅下車 約2km 千倉駅からJRバス 又はタクシー利用 * 富津館山道路 富浦インターより16km 約25分 * 駐車場 (右画像) 鳥居への参道に入る場所の道路を挟んで反対側 (高家神社のHPを参考にしました) ● 近くの 伊予ケ岳・・・御殿山・・・富山・・・鋸山・・・養老渓谷 も載せてあります ● (画像をクリックすると大きくなります) ● (ホームへ) ● |